ブログをブロックする
ブログを報告する
推敲下手にて、記事投稿後も数日は直してます。一週間後に読んだ方が読易いかも。▪️履歴・・・長文にてお暇な時にどうぞ尾張の国に生まれる。→物心つく頃には工具持って自転車バラしたり半田ごて握ってラジオを作ったり。中学で電話級アマチュア無線開局。→高校の部活は山岳部。今よりずっと痩せてた。→工学部電子工学科入学 授業に行かずバイク部のガレージと図書室に入浸る。乗り方はつじつかさ、構造は島英彦に影響される。→毎週愛知県内各自動車学校で開催される、交機主催のライディングスクールに通い詰める。ジムカーナみたいな慣熟走行にハマる。→アウトドアとバイクが揃ったので日本をフラフラし始める。留年する。図書室では閉架となった古い雑誌"内燃機関"や"自動車工学"はたまた戦時中の星形空冷機関の教科書等を読み漁る。古い技術に触れ、技術史が物事を深く理解するためには大事な事なんだなと気づき始める。→阪神淡路大震災、東灘区でボランティア。TZR125で走回り、銭湯や自衛隊が立てた風呂の営業時間を調査し区役所前に壁新聞を貼ったり、避難所で必要な物資の調査等を行う。1万円落ちていても拾わなさそうな山の手と、庶民がひしめく海岸近くの下町の格差に驚く。→各方面の御厚情により大学を卒業させて頂く。俺ほど成績の悪い奴も居るまいとヘラヘラしてたら、もっと悪い奴がいて驚く。世界は広い!卒業時に乗っていた車は2stジムニーSJ30。バイクは42PSフルパワー仕様に改造した2代目VT250F。油圧クラッチの42psはオリジナルにはない仕様。前後コムスターホイール。最近のVTよりずっとスポーツしてた。→5人募集してたベンチャー企業に「君は面白そうだから」と言う理由で6人目として就職。電子部品製造設備開発職となる。遠州在となる。車がAE86になる。マレーシア出張時にローカルスタッフより「俺たちは駐在員に『スキルが低い!』と、いつも怒られている」と愚痴られる。彼らにもっと時間をかけて教えられたら良いのにねぇと不憫に思う。これが後の協力隊参加への動機の一つとなる。→大型自動二輪が自動車学校で取れる様になる。安価な免許センター一発試験がガラガラになり受験する。3回目で合格。当時乗っていたBROS_P2(400cc)からBROS_P1(650cc)に乗換える。車がランサーGSR1800ターボ4WDになる。→青年海外協力隊H14年度2次隊に参加。フラフラが高じて海外へ。 インドネシア電子機器、肢体障害者向け全寮制職業訓練学校にてインストラクターとして教師へ家電修理指導。マカッサル沖のKapoposang島をベースにダイビングを始める。北スラウェシのマナドではナイトダイブにも関わらずガイドが1時間以上潜りやがって客の2/3がライトの電池切れになる!とか、初心者グループなのに水深40m近くまで潜らされたり!と安全管理クソくらえなお国柄に鍛えられる。→国際緊急援助隊'04年スマトラ沖地震に参加。インドネシアスマトラ島アチェ市のグランドに日本政府が作った野戦病院風の診療所で薬局担当のへっぽこ通訳。→再びインドネシアのマカッサルに行き、ダイビングセンターでメカニック兼サポートダイバーとなる。機材(船・船外機・ダイビング機器)の整備と、ダイビングの日々。お客のサポートで潜り水深52mでダッシュした後、猛烈な窒素酔いで失神しかける。とか日本の感覚では信じられない環境でさらに鍛えられる。(レクリエーションダイビングでは30m以深はディープダイブとなり初心者向きではない。体質によって30mでも窒素酔いになり事故を起こす事もある。そして最大深度は40もしくは42m。52mなんてあり得ない)→帰国後、14社目で内定した会社にて自動車部品製造設備の開発職となる。勢州在となる。遠州時代に比べ、東アジア東南アジアへの出張が増える。→面白半分でアマチュア無線1級に挑戦する。当時欧文25字/分の頃。モールス信号受信が難関だった。えあー・たーにだべ方式でがんばった。なんとか1回目で合格。50w局となる。→車はジムニーに帰ってきた。JA11に乗っていたが塗装劣化が酷くなり、サラリーマンが通勤する車として気が引ける様になる。ジムニーワイド1300 JB33Wに乗り換える。→東日本大震災、三重県等が共同で主催する「三重ボラ」一次隊に参加。山田町にてボランティアセンター運営に当たる。ボランティア終了後、なんでも人間生きている内と思い、五ヶ所湾にて23尺ディーゼル和船購入。海釣りにハマる。→月山義高刃物店で小魚用の包丁を買い、研ぎ講習を受ける。研ぎにハマり、砥石が増え始める。当時月山さんは天然砥石にハマりつつある時期だった為、大いに影響を受ける。→燃えるごみを捨てに行ったら、ゴミステーションにて世話好きなおばちゃんに彼女を紹介してもらう。その後結婚。JB33Wジムニー1300が乗用車ぽくて嫌になり、さらに古いジムニーに乗り換える。しかし、コイルスプリングの方が乗りやすいと分かったのでJA11ではなくあえて不人気なJA12Wを選ぶ。最後のF6エンジン搭載ジムニー。鉄ブロック2バルブのまま64psまで出してるけど現在まで大きなトラブル無し。頑丈なエンジンに感謝。→浄化槽管理清掃会社に転職。→ディーゼル和船(デッキ船)を荒天航行中に浸水させ五ヶ所湾沖で転覆してしまう。海上保安庁のヘリに救出されセントレアに搬送される。お陰様で生きております🙇 浸水個所は実地検分するも不明。デッキ船の本来浸水しない区画に浸水したことが転覆の原因だが浸水そのものの原因や位置は分からなかった。船は解体処分。不起訴となり法的な処分は免れたが、これを機会に一旦船を降りる事にした。→月山義高刃物店で開催された研ぎサミットにて薄削りの実演を見る。この実演をされてたのが天然砥石尚の尚さんだった。ヤフーブログを始める。大工さんに大量の古鉋等、道具を頂く。削ろう会を見学する。削ろう会に参加する様になる(自己ベストは2024与板6-7-10μm)さらに砥石が増える。→時間が出来たので自分で工房を建てる。外側が出来たら、中で3x6判の作業台を3寸角檜のホゾ組にて製作。これが初めての木工製作となる。その後、断熱、内装、電気(動力含)、エア、水道、エアコンまで自分で施工。→古道具屋で安い古道具を買ってきては再生するようになる。→道具が増え、環境が整ってきたので本格的に木工を始める。→自分の作品がプロにどれくらい通用するか試したくなり、儲けは度外視で商品を作り始める。→'23糸魚川全国削ろう会にて出店し、 ・台直し定規 ・4本竿罫引 を売り始める。→出店結果を反省し新たな商品を開発中。また、木工の師を見つけて修行せねばと思い始める。→滋賀県大津市比良に基礎から教えて頂ける木工教室を見つける。運良く空きが出た為、すかさず申込む。毎週土曜日に下道を片道110km走って通い始める。遠距離な為1年間と期間を決めて通うことにした。教室では基本的な継手を練習した後、引出しや椅子を製作する。ネジや釘を使わず伝統的な継手と接着剤の組合せで製作する事を学ぶ。→'24クラフトフェア感じる比良にて、たぬき作の踏み台をお買い上げ頂く。'25の感じる比良ではサイドテーブルとぐい呑をお買い上げ頂く。台直し定規に続き、販売実績が出来る。→4本竿罫引は全く売れず。しかし諦めず罫引第2弾としてデジタルボールペン罫引を開発する。'25与板削ろう会で試作品を展示して削りストより感想を伺う←イマココ▪️資格中型8t 大型自動二輪フォークリフト講習シーケンス制御応用コース修了小型船舶新1級NAUIレスキューダイバー1級アマチュア無線2級海上特殊無線2種電気工事士浄化槽管理士浄化槽技術管理者浄化槽清掃技術者下水道第3種技術検定・削ろう会の記録津__'19-04/28 27・25・22 無双与板_'19-06/09 15・15・14 雪月伊勢_'19-09/16 09・13・15 我逢人亀岡プレ'19-11/03 09・11・09 我逢人西尾_'20-07/24 13・14・14 我逢人亀岡_'21-11/13 09・09・09 我逢人与板_'23-06/11 07・10・12 雪月糸魚川_未計測与板_'24-06/09 06・07・10 我逢人秦野_'24-11/10 10・12・12 我逢人交野_'25-04/13 14.5-11.5-15.5 我逢人与板_'25-06/08 16・11・08 雪月
テーマ: カメラ・写真・光学機器
テーマ: 日記
DIY
アメンバーになると、アメンバー記事が読めるようになります