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三田村ちはる(みたはる) 紹 介【郷土史研究家、イラストレーター、ライター、作家】1970年岡崎市生まれ市民活動団体岡崎歴史探求班会員東海愛知新聞歴史ライター保護猫ネコ5匹飼育中(20歳の子は2025年12月30日虹の橋を渡る)介護経験あり(要介護1、2、3、4、5すべて経験あり)趣味はドールを愛でること、(オオイケのミリオンベビー、タカラ、ヤマトマネキン、サクラビスク)喫茶店巡り、読書、映画鑑賞、美術館・博物館巡り、特撮モノ鑑賞、取材ソーイング、格闘技鑑賞(特に相撲、柔道。ボクシング、ブレイキングダウン)【所属】岡崎歴史探求班地方史歴史研究会 文藝岡崎保護司嘱託矢矧趣味会【主な実績】1997年 彩雲堂画廊にて絵画個展開催1998年 彩雲堂にてグループ展開催2000年 文芸社より『愛するあなたーTo Loved You-』出版 投稿マニアとなり、いくつか賞をいただく 表彰式などに出席する 2016年 市民活動団体 岡崎歴史探求班 立ち上げ 事務局2017年 エフエムEGAO出演開始(当時はFMおかざき) 「古都矢作探訪」毎週土曜・日曜13:002017年 岡崎さくら祭り 家康行列 お題の方役出演2018年 岡崎さくら祭り 家康行列 築山御前腰元出演 家康公誕生祭 於大・広忠縁結び行列お松の方役出演2019年 地元北野町北野廃寺にて「矢作飛鳥祭り」開催 事務局担当2020年 東海愛知新聞『矢作に住んでみました』連載開始 『長澤松平風聞記』連載2021年 絵本出版『大友皇子の伝説』玉泉寺出版2022年『文藝岡崎』掲載開始2022年『研究紀要』地方史研究会会報掲載 地方史研究会執筆者講義2023年 自民党清風会10月勉強会講義 テーマ「英の戴冠式から考える、世界から見た日本と天皇」 『文藝岡崎』掲載2024年『文藝岡崎』掲載 『康生☆ラプソディー』連載 『連尺の時計職人 中條勇次郎』連載 『愛知ものづくり産業 家康公の時計』連載 幸田町西方寺蓄音機コンサートにて「中條勇次郎」講義2025年『康生☆ラプソディー』出版 『文藝岡崎』掲載2026年 1月 行政書士会歴史講座「松坂屋時代の女子高生・思い出の風景たち」 3月 幸田町西方寺蓄音機コンサートにて「長澤松平家前半」講義 5月 地元伝承歴史パンフレット「大友皇子」矢作地区出版 『地元に伝わる、大友皇子の伝説 やはぎの古代ロマンへようこそ』 9月 幸田町西方寺蓄音機コンサートにて「長澤松平家後半」講義 10月 地元伝承歴史パンフレット「岩津松平・松平信光」岩津地区出版 『岩津松平氏進出600年 歴史ある町へようこそ』 kindle出版 『松坂屋時代の女子高生』3月 『さらっと覚える 国司・郡司 守護・地頭って、なぁに? 三河推し!!』3月 『中條勇次郎 津田助左衛門』 愛知ものづくり産業に繋がるふたりの天才 5月 『愛するあなた 文字の向こうの物語』4月 『To Loved ONE: story beyond bautifulword』4月 (『愛するあなた 文字の向こうの物語』海外版) 『毒親の呪いを解いたらお金の流れがいっきに変わった』4月 『毒親のもとで育った私が 小さい私と出会ったら: インナーチャイルド あなたに会いたい』5月 『ながさわ松平聞き語り 岩津編 三河推し』6月 『長澤松平風聞記 仏像記語り 岩津編』6月地元伝承歴史パンフレット 『地元に伝わる、大友皇子の伝説 やはぎの古代ロマンへようこそ』矢作地区 『岩津松平氏進出600年 歴史ある町へようこそ』岩津地区 ▶︎連絡先 090−3457−7644 (先にCメールをいただけると確実に返信します) roze31800@yahoo.co.jp aniko31800@gmail.com【生い立ちと活動目的】ネガティブな内容が含まれます。長文です。両親とは、ほとんど会話が成立しない家庭で育った。現在も,当時の親子関係の暖かさはわからないし、いまだに、どうしてあれほど冷たくされたのかわからない。自分が結婚して家を出るまで、同じ家の中で暮らしてきたというのに、会話が成立したことがない。どうして、母は、あれほど私を頑固に受け入れなかったのだろうか。どうして、あれほど私を嫌ったのか。それは、今でもわからない。父もそうだった。いつも、私の顔を見ては、馬鹿にしたように笑いながら罵倒する言葉を、嫌というほど投げかけてきた。私が嫌な顔をしたり、悲しんでいる姿を見ると、さらに指をさしてゲハゲハと笑った。きっと、私の両親は、私を虐め、痛めつけることで、自分たちの存在感や、自己肯定感を感じていたのだと思う。自分の子どもなら、何をしても許され、どれだけ傷つけても許されると思っていたと思うが、それは大きな間違いだ。そんな両親の介護が必要となった時。世話は一緒に住んでいた弟が、一生懸命にやっていたので、私も手伝ったし、最期まで、私ができる限りの面倒を見たが、心から優しい気持ちにはなれなかった。 子どもの頃は、とにかく両親、親戚など、親身になってくれる人や、甘えられる人がいなかった、馬鹿にして笑ってくる人や、いじめてくる人はいても、信頼できる大人や、守ってくれる人はいなかった。両親は、一番初めに私を傷つけ、足を引っ張りにきた。たとえ私が悪くなくても、「お前が悪い」と、人前で私を貶し、「あなたは、なんと立派な親しょうか」と、他人から褒められたい姿勢がみえみえだった。とにかく、何があっても庇ってもらったことも、優しく慰められたこともなく、驚くほど冷たい両親だった。私が学校で表彰されても、学校の代表になっても。お前は何をやっているんだという目で見られた。私は絵と作文が得意だったので、たくさん賞状をもらって帰ってきたが、褒めることも喜ぶこともなかった。まるで私を痛めつけ、押さえつけるために生きているようだった。子供の頃は、世の中がこんな世界なら、生きていても仕方がないと繰り返し考えた。母が体調を崩し、寝込むことが多かったので、小学生の頃にはヤングケアラーとして母の代わりに家事をこなした。そのため、給食袋も、給食費も、体操服も、セーラー服も、靴下も、必要なものが用意できないことも多く、本当に困ることが多かったし、人前で恥をかかかされることも多かった。学校の家庭科の授業で覚えた料理は、すぐに家で何度も再現した。自宅ではお湯のでる蛇口がなかったため、冬になると極寒の氷水のような冷たい水に、全身を凍えさせながら、家事をこなした。手の甲は一年中荒れており、冬になると霜焼けで切り傷がいくつもできて塩や調味料が傷口に染み、心では毎日悲鳴を上げていた。ご飯はガスで炊いていた。そのため、炊飯スイッチを入れたつもりで、不完全燃焼を起こし、何度もガス爆発を起こすこともあった。その度に前髪やまつ毛が焦げてチリチリになった。水道管もよく詰まった。さないと、水が室内に溢れるため、詰まりを治すことに必死だった。直す道具も何もないため、家の中にある針金のハンガーを硬いペンチで無理やり広げて棒状にし、何度も水道管の中へ突っ込んだ。それで毎回、水道管の詰まりが治ったため、そのハンガーで作った棒は、常に台所の隅に立てかけて常備するようになった。私のそんな姿を見ても、兄弟たちは何も言わず、手伝いもせず、兄に至っては「知ってる?お前がキャベツの縁切りをするからつまるんだよ?」と笑いながら、さも得意そうに私にいった。小学校、中学校、高校、社会人と、家庭のことはほとんど人には話さなかったし、話す気にもならなかった。わざと隠していたわけでもないし、わざと喋らなかったわけでもないが、どこに行ってもお姉さん扱いで、まとめ役となることが多かったので、自分で自分のことを話すよりも、人の話を聞くことの方が多かった。家出を繰り返した時期もあったが、お腹をすかしている家族、兄弟のことを思うと、泣く泣く家に帰るしかなかった。母が寝込んでしまうと、食べるものには本当に困った。大人になってから兄も同じことを言っていたが、インスタントラーメンと永谷園(ふりかけとお茶漬け)がなかったら、私たち兄弟は飢え死にしていたと思う。ちょうど、インスタントラーメンが爆発的に増え始めた時代だった。ある日、お腹が空いたのに家には食べるものがなかったことがあった。まぁ、それはよくあることだったが、その時はたまたま買い置きしてあった、焼きぞばUFOが目に入ったので作ろうとした。初めて作るものだったので、お湯の切り方が分からず、困っていたら父が近くでニヤニヤしながらこちらを見ていた。そして「見とれ。あいつは麺ごとお湯を流すぞ」と弟に言った。なんのことかわからずに、お湯を流そうとしたら、お湯が蓋を押し上げ、ゆで上がった麺がお湯と共に流れ出た。あっと思った時はもう半分以上の麺が、洗面へ流れ出てしまい、私は呆然としてしまった。戻したくても、麺が熱くて手が出せないのだ。それを見て父は、「ほれみよ。言った通りになった」と、腹を抱えてゲハゲハと笑った。子どもがお腹を空かせ、必死に食べ物を探して用意し、それが現実的に食べられなくなって、ショックを受けているというのに、自分の親が、そんな自分を笑い物にしているのだ。それを見せられている弟の気まずそうな顔。「あいつ、拾って食べるだかやぁ」さらに父は笑いながら私に追い打ちをかけた。もしもその場に誰もいなかったら、迷わず拾って洗って食べたのだが、あまりにもショックで頭にきたので、捨ててしまった。その姿を見て、父はさらに声を上げて笑った。「あいつ、食えんかったわ」と。 お腹が空きすぎて怒る元気もなかったし、泣く元気もなかった。こういうものが親なのかと、無力感が身体中に広がって絶望しかなかった。涙も出なかった。とにかく涙が出ないほどのことばかりなのだ。兄が小さかった頃、思い通りにならないと人前で大きな声で泣き喚いて母を困らせることがよくあった。そんな姿を見て母はどうしたものかとオロオロし、祖母はそんな母を冷たく叱りつけたのだ。それを何度も見ていたので、私が泣くと母を困らせるのだと思い、どれだけ泣きたくても必死に我慢をする癖がついた。他にも、私が筒型の紙パックのカフェオレを飲んでいる横で、父が同じものを飲んでいたことがあった。そして、父は飲み終えた紙パックを灰皿がわりにして、タバコを吸っていた。テレビを見ていた私は、自分のカフェオレを飲もうとして、うっかり、隣にあった父のカフェオレ容器を手にし、一気に飲み干した。ると、ザラザラとしたタバコの肺が喉の奥へ入った。気持ち悪さとショックで驚き、うめき声を上げて立ち上った。その頃、タバコの灰やタバコの葉っぱを食べると「死ぬ」。そんな都市伝説がまことしやかに噂されていたのだ。私は咄嗟に「死ぬ!」と思い、立ち上がってうがいに行ったが遅かった。気持ち悪くて、吐きそうになったが、いっこうに出てこない。頭の中は「死ぬかもしれない」という恐怖で心臓はバクバク。パニックになった。そんな慌てている私の姿を見て、やはり父は指を指しながらゲハゲハと笑った。「あいつ、間違えて俺の灰皿飲んでいやぁがる」私が死にそうだと焦っているというのに、指を指して笑い者にする。どうして、そんなひどいことができるのだろう。どうして、そんなに人を傷つけて楽しめるのだろう。日常の全てがそんな感じだった。私は、子どもの頃からひどい眩暈に悩まされることが多かった。あまりにも怖いので、流石に何度も母に訴えたが、母は目を背け、嫌な顔をするだけで、優しく慰めてくれたこともなかった。それは学校へ行くようになってからも治ることがなく、あまりの気持ち悪さに、度々保健室へ行っていた。小学校の保健室は給食室に近かったため、いつも給食のおばさん二人が心配うに看病に来てくれた。それが初めて人に心配をされるという経験だった。大人になってからわかったのだが、その目眩の原因は、家庭内でのストレス。そして、霊媒体質から引き起こされるものだったようだ。原因がストレスにしろ、霊媒体質にしろ、どちらにしても理解する大人がおらず、誰にも理解されず、怠け者だ、気のせいだと言われ、一人苦しむ日々を送った。眩暈が始まると、その場の空気が歪み、その場も自分も揺れまくるので、いつも震度4以上の地震を経験しているような体感だった。こんなに自分は揺れを感じているのに、どうして周りの人たちは平然としているのだろう。どうして、誰も気づかないのだろうと、その度に孤独が強まった。実際、大人になってからもこの揺れを経験することが多いのだが、その時、周りにいたひとに確認を取っても、「どこも揺れていないし、あなた自身も普通に立っていて、揺れてなかったよ」そう言われるのだ。あんなにも揺れて、倒れそうになっているのを必死に堪えて立っているのに、どうして、見た目と体感がこんなに違うのだろう。その謎はいまだに解明していない。でも、子どもの頃とは違い、人には話せるようになった。それが、霊媒体質なのだとわかってからは、かなり気持ちが楽になった。「霊媒体質」そのものも、かなり怪しげな雰囲気があるが、大人になってから、そういう人が他にもいる、ということがわかったのだ。改善はされなくても、私の孤独は少し解消された。目眩の他にも、風邪をひいたり、怪我をしても優しく看病されたこともなく、暖かい言葉をかけられたこともなかった。逆に「なぜ、親に迷惑をかけるんだ!」と睨まれ、無視され、怒られた。病院へ連れていってもらうこともなかった。学校で健康診断があり、病院で診察を受けてくださいという手紙を持って帰ると、それを差し出した途端に機嫌が悪くなり、頭の上から炎が上がった。しかし、病院へかかった証拠として、医者の署名が必要だったため、行かなければ再び学校から連絡が来る。母は怒り狂ったまま、思い詰めた顔でタクシーを呼び、私とは始終一言も口をきかないまま、処刑場へ向かうように病院へ行って診察を済ませ、やはり一言も口をきかないまま帰ってくるのだった。自分が病気や怪我をするということは、母を困らせるのだ、苦しませるのだ。それ以来、学校からの手紙は握りつぶすようになった。そして、いつのまにか怪我をしても体調が悪くなっても、隠す癖がついた。容体が悪くて起きられない時は、起こされないまま布団に寝かされ続け、まるまる1日が、なくなっていたこともよくあった。人から話を聞くと、母とは体温計で熱を測ってくれたり、パジャマを用意してくれたり、食事を用意してくれたり、怪我をした時は消毒をして、バンドエイドを貼ってくれるものだそうだ。それは、うちでは全く考えられないことだった。社会人になってからは、あまりの忙しさにパニック障害が現れるようになった。ある日、朝から息苦しさを感じていたが、とうとうその日の午後に呼吸困難を起こし、心臓発作でぶっ倒れたのだ。職場は騒然となった。同僚たちが慌てて駆けつけ、飲み物を持ってきてくれたり、冷たい足を温めたりしてくれた。私は、相変わらず忙しい毎日を過ごしていたので、もうこのまま死ぬんだ、と覚悟した。結果は自律神経の乱れによる「パニック障害」と「過呼吸」。こうなると、いつもは無意識のうちに呼吸できていたものが、できなくなり、意識をしないと呼吸できなくなるため、気が狂いそうになった。ただでさえ、心臓病のように動悸が激しいのに、さらに心臓が暴れ始める。息ができない苦しさと、心臓が今にも口から飛び出そうなひどい動悸と、同時に起きる眩暈に震え。自分の体が、自分でコントロールできなくなる恐怖に、何度も絶望を覚えた。こんな時でも、母はやはり無関心だった。こんな時に、私は縋りつける人がいない。辛い時、苦しい時に、私には頼れる人がいないし、甘えられる人がいない。自分にはいくらでも頼ってくる人や、甘えてくるひとはいるのに、肝心の自分には誰もいない。自分には止まり木がないのだ。戻る場所もない。優しく受け止めてくれる人がいない。心から信頼できる人がいないんだ。なんという孤独だ。苦しみに喘ぎながら、この世は地獄だと思った。そんな悲しい自分が哀れだった。何日も眠れない日々が続いた。昼なのか夜なのか、生きているのか死んでいるのかもわからない日々。ふと、目覚めた瞬間からパニックと心臓発作が始まった。空気を吸う、空気を吐く、空気を吸う、空気を吐く・・・意識しなければ呼吸ができなかった。普段は全く気が付かなかったけれど、無意識に呼吸ができるとは、なんとありがたいことだったのか。自律神経が乱れることの恐ろしさを何年も実感することとなった。心臓が口から飛び出そうな心臓発作も、一度症状が出ると落ち着くまでに何十分もかかったし、心臓の動悸が落ち着いても不整脈が出て、脈が一回途切れるとその日は1日何度も脈が切れ、苦しくて不安恐怖症を伴った。なんとかして何か食べなくてはと、お茶碗に盛ったご飯を震える体で食べようとしたら、自分の近くでガチガチガチガチ・・・と小刻みに響く音が聞こえたことがあった。なんだろう・・・と思い手を止めたら、自分が持っているお茶碗が、自分の歯に当たっている音だった。外の暑い空気に触れただけで息が止まる。処方された薬はさらに症状を悪化させる。お風呂に入るにも死に物狂いで、髪を洗うにも頭を下げるとたちまち目が回ってしまう。二十代でこんな体になってしまって、私の人生はどうなるのだろうと、毎日気が狂いそうだった。それでも母や父からは優しい言葉も手も差し伸べられることがなかった。なぜなのだろう。。。どうしてここまで、私のことを憎んでいたのだろう。どこに行っても苦しみは和らぐことがない。安らげる場所もなければ、安心できる人もいなかった。2度と社会復帰はできないと思ったが、その職場を離れると同時に、どんなに苦しくてもやり残したことをやろうと心に決めた。死ぬ前に絵画教室へ通い、ダンスを習いに行きたかったのだ。金銭的には辛くなるけれど、自分のために行動すること。あの時に決心してよかったのだ。あそこまで自分を追い込まなければ、私が自分のことを振り返らなかったのだろう。パニック障害は今も完治していないが、生活するには支障が出ないまでに回復した。今も過呼吸や眩暈は、疲れている時に顔を出すことがある。それは、自分を休ませるための、合図なのだと気が付くようになった。こんな自分が人の親になれるのか、結婚出産できるのかと不安になったが、息子がおおらかな性格だったため、私は自分の母のようにはならなかったのだと思う。母は見事に反面教師となってくれた。自分はやってもらっていなくても、人にはちゃんと優しくできるんだ・・・。育児を通して、自分のできることを確認できたことは本当にありがたいことだった。きっとあんなに大らかな子だったから、私も救われたのだと思う。息子は私のお腹にいた時から、私に大きな親孝行をし続けているのだった。そんな私が文章を書くようになった理由。それは、人間にとって「共感」が一番の「癒し」になると気付いたからだ。 「今日は暑いね」と言えば「暑いね」 「涼しくなってきたよね」と言えば「寒いね」 「これ、おいしいね」と言えば、「おいしいね」そんな、普通の会話ができる幸せと安心を届けたい。子どもの頃、学校は休憩をするために行くところだった。勉強や成績は、二の次だった。給食を食べることができ、まわりにはクラスメイトがいて、遊ぶ時間もある。時には誰かと喧嘩をしたり、仲裁に入ったり、大騒ぎすることもあった。そんな私が思いを吐くようになったのは、先生に提出する日記だった。小学校の高学年になると、母の監視をくぐり抜けることを覚えた。家庭内のぐちを描いたわけではなかったが、その時の先生が私の文章力に感心し、驚いた。そして「驚いた、驚いた」「こんな子がいたのか」「一生描き続けろよ」と返事をくれた。その時のそのやりとりが、私の今の人生を決めたのだ。人を立ち直らせるにも、勇気づけるにも、たった一言あればいいのだとわかった。私を認めてくれ、そして、信頼し、大事に思ってくれる一言で人間は蘇るのだ。パニック障害や過呼吸から復活した後、思い出したのはあの先生のあの言葉だった。自分は、自分の文章力を認めてくれる先生に出会うまで、救ってくれた人はいなかったが、自分は人を支えることができるようになろう。力になろう。そう思うようになった。自分の文章が、人を元気付けること。あなたが感じている苦しみは、あなただけではないよ。大丈夫だよ。あなたは決して、孤独ではないよと。私は伝え続けたい。悩みや苦しみを打ち明けるのは、自分がそうしたくなってからでいい。焦らなくてもいい。困難にぶち当たって、苦しんでいるのはあなただけではない。大丈夫だよ。あなたは決して孤独ではないんだよ。そして、私はいつも、ここにいるよと、言い続けたい。ただ、それだけのために書き続けている。ということで、・人間臭い、ときにはじめじめしたドラマが大好き。・師弟愛、兄弟愛ものが大好き。・親子愛を描いたものは、いまいちうさん臭く感じてしまうし、 素直に受け取れない時もあるけど、心のリハビリのためにドラマや映画 は観るようにしている。 一番好きな映画は『フォレスト・ガンプ』。『アルマゲドン』『タイタニック』『ラストエンペラー』『アマデウス』『フラッシュダンス』大好き。何度も観た。参考までに・・・【私がパニック障がいを引き起こすもの】※ 同じような症状がある人は、読むだけでもパニックを引き起こす可能性があるため、内容は飛ばすか、慎重に判断してください。◉遊園地▶︎遊具の大きな物から、小さな公園にある小さい遊具まで全て。遠くからでも、見たら一瞬で酔ってしまう。◉動く乗り物▶︎車が一番落ち着いて乗れる乗り物。電車、新幹線は扉が閉まると逃げ場がなくなる個室のため一人では乗らない。エレベーターも一人では乗らない。車も渋滞と高速道路は逃げ場がなくなるため、避けている。うっかり道に迷ったり渋滞にハマるとパニックを起こしてしまう。◉動くテレビ画面▶︎歌手を中心にぐるりと一周するカメラワークは最悪。車が事故を起こして横転、回転する映像なども一瞬見ただけで酔ってしまう。◉バンジー、機械体操、フィギュアスケート、トランポリン、スケートボードなどの回転性の動きを伴う映像。◉プラネタリウム、宇宙空間の映像▶︎空間に放り出されたような、上下左右のない世界。平衡感覚がなくなる。恐怖以外の何者でもない。◉天地が反転した映像▶︎地面が上にくる映像は一瞬で酔ってしまう。◉高速道路のカーブのある出入り口の道路▶︎回転性のある乗り物と一緒で20キロ以下の走行となる。◉非常階段、立体駐車場の上り下り▶︎一方方向のぐるぐると回る動きが続くため、踊り場で反対方向に向きを変えて対応。やむを得ず立体駐車場に入ってしまった時は10キロ以下。◉船などの浮遊感があるもの▶︎なんとかその場を終わらせても、フラッシュバックがあるため乗らない。◉天井についている大きなファン▶︎コロナ以降、世間の店内、施設などで設置が増えた。一瞬で酔ってしまう。目に入らなくても振動や音、空気の動きで酔ってしまう。◉高い金属音。続く振動▶︎気が狂いそうになる。◉閉所、白壁▶︎平衡感覚がなくなり、パニックを引き起こす。◉窓のない部屋▶︎平衡感覚がなくなり、パニックを引き起こす。◉暗所▶︎一点の光もない暗所では平衡感覚が狂うため、パニックを引き起こす。◉広い海▶︎浮き袋で浮かんでいても足下が見えないため高所となり、平衡感覚がなくなる。現在は、明るい引きこもり。生活には支障がない程度にまで落ち着きました。死ぬ時は「やりたいことは、すべてやった」そう言える人生が目標です。文章を書きまくります。
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