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三田村ちはる(みたはる) 紹 介kindleライター・作家1970年岡崎市生まれ市民活動団体岡崎歴史探求班会員東海愛知新聞歴史ライター保護猫ネコ5匹飼育中(20歳の子は2025年12月30日虹の橋を渡る)介護経験あり(要介護1、2、3、4、5すべて経験あり)趣味はドールを愛でること、(オオイケのミリオンベビー、タカラ、ヤマトマネキン、サクラビスク)喫茶店巡り、読書、映画鑑賞、美術館・博物館巡り、特撮モノ鑑賞、取材ソーイング、格闘技鑑賞(特に相撲、柔道。ボクシング、ブレイキングダウン)【活動目的】ネガティブな内容が含まれます。長文です。・両親とは、ほとんど会話が成立しない家庭で育った。 現在も親子関係の暖かさはわからないし、いまだに、どうしてあれほど 冷たくされたのかわからない。 自分が結婚して家を出るまで、同じ家の中で暮らしてきたというのに、 会話が成立したことがない。 どうして、母は、あれほど私を頑固に受け入れなかったのだろうか。 どうして、あれほど私を嫌ったのか。 それは、今でもわからない。 父もそうだった。 いつも、私の顔を見ては、馬鹿にしたように笑いながら 罵倒する言葉を、嫌というほど投げかけてくるのだ。 私が嫌な顔をしたり、悲しんでいる姿を見ると、さらに指をさして笑った。 きっと、私の両親は、私を虐め、痛めつけることで、自分たちの存在感や、 自己肯定感を感じていたのだと思う。 自分の子どもなら、何をしても許され、どれだけ傷つけても許されると 思っていたと思うが、それは大きな間違いだ。 介護は弟が一生懸命にやっていたので、私も手伝ったし、最期まで面倒を見 たが、心から優しい気持ちにはなれなかった。 ・子どもの頃は、とにかく両親、親戚など、親身になってくれる人や、 甘えられる人がいなかった、 馬鹿にして笑ってくる人や、いじめてくる人はいても、 信頼できる人や、守ってくれる人はいなかった。 両親は、一番初めに私を傷つけ、足を引っ張りにきた。 たとえ私が悪くなくても、「お前が悪い」と、人前で私を貶し、 「あなたは、なんと立派な親しょうか」、と、 他人から褒められたい姿勢が見え見えだった。 とにかく、何があっても庇ってもらったことも、優しく慰められたこともな く、驚くほど冷たい両親だった。 まるで私を痛めつけるために生きているようだった。 世の中がこんな世界なら、生きていても仕方がないと繰り返し考えた。・母が体調を崩し、寝込むことが多かったので、小学生の頃にはヤングケアラ ーとして母の代わりに家事をこなした。そのため、給食袋も、給食費も、体 操服も、セーラー服も、靴下も、必要なものが用意できないことも多く、 本当に困ることが多かったし、人前で恥をかかかされることも多かった。 学校の家庭科の授業で覚えた料理は、すぐに家で何度も再現した。 自宅ではお湯のでる蛇口がなかったため、冬になると極寒の氷水のような 冷たい水に、全身を凍えさせながら、家事をこなした。 手の甲は一年中荒れており、冬になると霜焼けで切り傷がいくつもできて 塩や調味料が傷口に染みて、毎日心では悲鳴を上げていた。 ご飯はガスで炊いていたため、炊飯スイッチを入れたつもりで、不完全燃焼 を起こし、何度もガス爆発を起こした。その度に前髪やまつ毛が焦げてチリ チリになった。 水道管もよく詰まった。 直さないと、水が室内に溢れるため、詰まりを治すことに必死だった。 治す道具も何もないため、家の中にある針金のハンガーを硬いペンチで 無理やり広げて棒状にし、何度も水道管の中へ突っ込んだ。 それで毎回、水道管の詰まりが治ったため、そのハンガーで作った棒は、 常に台所で常備するようになった。 私のそんな姿を見ても、兄弟たちは何も言わず、手伝いもせず、 兄に至っては「お前がキャベツの縁切りをするからつまるんだよ」と 笑いながら、さも得意そうに私にいうのだった。・小学校、中学校、高校、社会人と、家庭のことはほとんど人には話さなかっ たし、話す気にもならなかった。 わざと隠していたわけでもないし、わざと喋らなかったわけでもないが、ど こに行ってもお姉さん扱いで、まとめ役となることが多かったので、 自分が自分のことを話すよりも、人の話を聞くことの方が多かった。 家出を繰り返した時期もあったが、お腹をすかしている家族、兄弟のことを 思うと、泣く泣く家に帰るしかなかった。・母が寝込んでしまうと、食べるものには本当に困った。 大人になってから兄も同じことを言っていたが、インスタントラーメンと 永谷園がなかったら、私たち兄弟は飢え死にしていたと思う。 ちょうど、インスタントラーメンが爆発的に増え始めた時代だった。 ある日、お腹が空いたのに家には食べるものがなかったため、 たまたま買い置きしてあった、焼きぞばUFOを作ろうとした。 初めて作るものだったので、お湯の切り方が分からず、困っていたら 父が近くでニヤニヤしながらこちらを見ていた。 そして「見とれ。あいつは麺ごとお湯を流すぞ」と弟に言った。 なんのことかわからずに、お湯を流そうとしたら、お湯が蓋を押し上げ、 茹で上がった麺が流れ出た。あっと思った時はもう半分以上の麺が、洗面 所へ流れ出てしまい、私は呆然としてしまった。 戻したくても、麺が熱くて手が出せないのだ。 それを見て、「ほれみよ。言った通りになった」と、父は腹を抱えてゲラ ゲラと笑った。子どもがお腹を空かせ、必死に食べ物を探して用意し、 それが現実的に食べられなくなって、ショックを受けているというのに、 自分の親が、自分を笑い物にしているのだ。 それを見せられている弟の気まずそうな顔。 「あいつ、拾って食べるだかやぁ」 さらに、徹底的に私を蹴落とすのだ。もちろん、誰もいなかったら拾って 洗って食べたのだが、あまりにも頭にきたので、捨ててしまった。 その姿を見て、父はさらに声を上げて笑った。 「あいつ、食えんかったわ」と。 他にも、私が紙パックのカフェオレを飲んでいる横で、父が同じものを 飲んでいたことがあった。 そして、飲み終えた紙パックを灰皿がわりにしてタバコを吸っていた。 テレビを見ていた私は、自分のカフェオレを飲もうとして、 うっかり、隣にあった父のカフェオレ容器を手にし、一気に飲み干した。 すると、ザラザラとしたタバコの肺が喉の奥へ入っていった。 気持ち悪さとショックで驚き、うめき声を上げて立ち上った。 その頃、タバコの灰やタバコの葉っぱを食べると、死ぬと まことしやかに噂されていたのだ。 私は咄嗟に「死ぬ!」と思い、立ち上がってうがいに行ったが遅かった。 気持ち悪くて、吐きそうになったが、いい香に出てこない。 頭の中は「死ぬかもしれない」という恐怖でいっぱいになった。 そんな慌てている私の姿を見て、やはり父は指を指しながらゲラゲラと 笑った。 「あいつ、間違えて俺の灰皿飲んでいやぁがる」 私が死にそうだと焦っているというのに、指を指して笑い物にする。 日常の全てがそんな感じだった。・私は、子どもの頃からひどい眩暈に悩まされることが多かった。 あまりにも怖いので、何度も母に訴えたが、母は困った顔をしたり、 嫌な顔をするだけで、優しく慰めてくれたこともなかった。 それは学校へ行くようになってからも治ることがなく、 あまりの気持ち悪さに、度々保健室へ行っていた。 小学校の保健室は給食室に近かったため、いつも給食のおばさん二人が 心配そうに看病に来てくれた。 それが初めて人に心配をされるという経験だった。 大人になってからわかったのだが、その目眩の原因は、家庭内でのスト レス。そして、霊媒体質から引き起こされるものだったようだ。 原因がストレスにしろ、霊媒体質にしろ、どちらにしても理解する大人が おらず、一人で苦しむ日々を送った。 眩暈が始まると、その場の空気が歪み、その場も自分も揺れまくるので、 いつも震度4以上の地震を経験しているような体感だった。 こんなに自分は揺れを感じているのに、どうして周りの人たちは平然とし ているのだろう。 どうして、誰も気づかないのだろうと、その度に孤独が強まった。 実際、大人になってからもこの揺れは経験することが多いのだが、 その時、周りにいたひとに確認を取っても、 「どこも揺れていないし、あなた自身も普通に立っていて、揺れてなかっ たよ」 そう言われるのだ。 あんなにも揺れて、倒れそうになっているのを必死に堪えて立っているのに、 どうして、見た目と体感がこんなに違うのだろう。 その謎はいまだに解明していない。 でも、子どもの頃とは違い、人には話せるようになった。 それが、霊媒体質なのだとわかってからは、かなり気持ちが楽になった。 「霊媒体質」そのものも、かなり怪しげな雰囲気があるが、 大人になってから、そういう人が他にもいる、ということがわかったのだ。 改善はされなくても、私の孤独は解消された。 目眩の他にも、風邪をひいたり、怪我をしても優しく看病されたこともなく、 優しい言葉をかけられたこともなかった。 逆に「なぜ、親に迷惑をかけるんだ!」と睨まれ、無視され、怒られた。 病院へ、連れていってもらうこともなかった。 学校で健康診断があり、病院で診察を受けてくださいという手紙を持って帰 ると、それを差し出した途端に機嫌が悪くなり、頭の上から炎を上げた。 しかし、病院へかかった証拠として、医者の署名が必要だったため、 母は怒り狂ったまま、思い詰めた顔でタクシーを呼び、 私とは始終一言も口を聞かないまま、 診察を済ませて帰ってくるのだった。 自分が病気や怪我をするということは、母を困らせるのだ、苦しませるのだ。 それ以来、学校からの手紙は握りつぶすようになった。 そして、いつのまにか怪我をしても体調が悪くなっても、 隠す癖がついた。 容体が悪くて起きられない時は、起こされないまま布団に寝かされ続け、 まるまる1日が、なくなっていたこともよくあった。 人から話を聞くと、母とは体温計で熱を測ってくれたり、パジャマを用意して くれたり、食事を用意してくれたり、怪我をした時は消毒をして、バンドエイ ドを貼ってくれるものだそうだ。それは、うちでは全く考えられないことだっ た。 ・社会人になってからは、あまりの忙しさにパニック障害を起こした。 ある日、朝から息苦しさを感じていたが、とうとうその日の午後に呼吸困難を 起こし、ぶっ倒れたのだ。 職場は騒然となった。同僚たちが慌てて駆けつけ、飲み物を持ってきてくれた り、冷たい足を温めたりしてくれた。 私は、相変わらず忙しい毎日を過ごしていたので、もうこのまま死ぬんだ、と 覚悟した。 結果は自律神経の乱れによる「パニック障害」と「過呼吸」。 こうなると、いつもは無意識のうちに呼吸できていたものが、できなくなり、 意識をしないと呼吸できなくなるため、気が狂いそうになった。 ただでさえ、心臓病のように動悸が激しいのに、さらに心臓が暴れ始める。 息ができない苦しさと、心臓が今にも口から飛び出そうなひどい動悸と、 同時に起きる眩暈に震え。 自分の体が、自分でコントロールできなくなる恐怖に、何度も絶望を覚えた。 こんな時でも、母やはやり無関心だった。 こんな時に、私は縋りつける人がいない。 辛い時、苦しい時に、私には頼れる人がいないし、甘えられる人がいない。 自分にはいくらでも頼ってくる人や、甘えてくるひとはいるのに、 肝心の自分には誰もいない。 自分には止まり木がないのだ。戻る場所もない。 心から信頼できる人がいないんだ。 苦しみに喘ぎながら、この世は地獄だと思った。 そんな悲しい自分が哀れだった。 2度と社会復帰できないと思ったが、 その職場を離れると同時に、やり残したことをやろうと決めた。 死ぬ前に、絵画教室をダンスを習いに行きたかったのだ。 金銭的には辛くなるけれど、自分のために行動することを決心してよかった。 そこまで自分を追い込まなければ、自分のことを振り返らなかったのだろう。 パニック障害は今も完治せず、生活するには支障が出ないまでになった。 過呼吸や眩暈は、疲れている時に顔を出すことがある。 それは、自分を休ませるための、いい合図だと受け取れるようになった。・そんな私が文章を書くようになった理由。 それは、人間にとって「共感」が一番の「癒し」になると気付いたからだ。 「今日は暑いね」と言えば「暑いよね」 「涼しくなってきたよね」と言えば「ちょっと寒いよね」 「これ、おいしいね」と言えば、「おいしいね」「塩気がもう少し欲しいね」そんな、普通の会話ができる幸せと安心を届けたいのだ。子どもの頃、学校は休憩をするために行くところだった。勉強や成績は、二の次だった。給食を食べることができ、まわりにはクラスメイトがいて、遊ぶ時間もある。時には誰かと喧嘩をしたり、仲裁に入ったり、大騒ぎすることもあった。そんな私が思いを吐いていたのは、先生に提出する日記だった。小学校の高学年になると、母の監視をくぐり抜けることを覚えた。家庭内のぐちを描いたわけではなかったが、その時の先生が私の文章力に感心し、驚いた。そして「驚いた、驚いた」「こんな子がいたのか」「一生描き続けろよ」と返事をくれた。その時のそのやりとりが、私の今の人生を決めたのだ。人を立ち直らせるにも、勇気づけるにも、たった一言あればいいのだとわかった。私を認めてくれ、そして、信頼し、大事に思ってくれる一言で人間は蘇るのだ。パニック障害や過呼吸から復活した後、思い出したのはあの先生のあの言葉だった。自分は、自分の文章力を認めてくれる先生に出会うまで、救ってくれた人はいなかったが、自分は人を支えることができるようになろう。力になろう。そう思うようになった。自分の文章が、人を元気付けること。あなたが感じている苦しみは、あなただけではないよ。大丈夫だよ。あなたは決して、孤独ではないよと。私は伝え続けたい。悩みや苦しみを打ち明けるのは、自分がそうしたくなってからでいい。焦らなくてもいい。困難にぶち当たって、苦しんでいるのはあなただけではない。大丈夫だよ。あなたは決して孤独ではないんだよ。そして、私はいつも、ここにいるよと、言い続けたい。ただ、それだけのために書き続けている。ということで、・人間臭い、ときにはじめじめしたドラマが大好き。・師弟愛、兄弟愛ものが大好き。・親子愛を描いたものは、いまいちうさん臭く感じてしまうし、 素直に受け取れない時もあるけど、心のリハビリのためにドラマや映画 は観るようにしている。『アルマゲドン』大好き。何度も観た。【所属】岡崎歴史探求班地方史歴史研究会 文藝岡崎保護司嘱託矢矧趣味会【主な実績】1997年 彩雲堂画廊にて絵画個展開催1998年 彩雲堂にてグループ展開催2000年 文芸社より『愛するあなたーTo Loved You-』出版 投稿マニアとなり、いくつか賞をいただく 表彰式などに出席する 2016年 市民活動団体 岡崎歴史探求班 立ち上げ 事務局2017年 エフエムEGAO出演開始(当時はFMおかざき) 「古都矢作探訪」毎週土曜・日曜13:002017年 岡崎さくら祭り 家康行列 お題の方役出演2018年 岡崎さくら祭り 家康行列 築山御前腰元出演 家康公誕生祭 於大・広忠縁結び行列お松の方役出演2019年 地元北野町北野廃寺にて「矢作飛鳥祭り」開催 事務局担当2020年 東海愛知新聞『矢作に住んでみました』連載開始 『長澤松平風聞記』連載2021年 絵本出版『大友皇子の伝説』玉泉寺出版2022年『文藝岡崎』掲載開始2022年『研究紀要』地方史研究会会報掲載 地方史研究会執筆者講義2023年 自民党清風会10月勉強会講義 テーマ「英の戴冠式から考える、世界から見た日本と天皇」 『文藝岡崎』掲載2024年『文藝岡崎』掲載 『康生☆ラプソディー』連載 『連尺の時計職人 中條勇次郎』連載 『愛知ものづくり産業 家康公の時計』連載 幸田町西方寺蓄音機コンサートにて「中條勇次郎」講義2025年『康生☆ラプソディー』出版 『文藝岡崎』掲載 kindle出版 『松坂屋時代の女子高生』3月 『さらっと覚える 国司・郡司 守護・地頭って、なぁに? 三河推し!!』3月 『中條勇次郎 津田助左衛門』 愛知ものづくり産業に繋がるふたりの天才 5月 『愛するあなた 文字の向こうの物語』4月 『To Loved ONE: story beyond bautifulword』4月 (『愛するあなた 文字の向こうの物語』海外版) 『毒親の呪いを解いたらお金の流れがいっきに変わった』4月 『毒親のもとで育った私が 小さい私と出会ったら: インナーチャイルド あなたに会いたい』5月 『ながさわ松平聞き語り 岩津編 三河推し』6月 『長澤松平風聞記 仏像記語り 岩津編』6月2026年 『地元に伝わる、大友皇子の伝説 やはぎの古代ロマンへようこそ』6月▶︎連絡先 090−3457−7644 (先にCメールをいただけるとありがたいです) aniko31800@gmail.com現在は、明るい引きこもり。死ぬ時は「やりたいことは、すべてやった」そう言える人生が目標です。どうぞ、よろしくお願いいたします。
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