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ご訪問ありがとうございます。つくば市にてピアノ教室を開いております渡辺貴子です。指導歴は30年以上、いえ、もうすぐ40年になります!私のピアノ指導の根幹となっているであろう、私のこれまでについて書かせて頂きます。少しお付き合いいただけますか?・父との別れ生まれは東京。会社員の父と専業主婦の母の第1子として大切に育てられました。ところが2歳になる直前、父が交通事故に遭い、生活は一変します。父は即死。母は2歳になった私を連れて、実家のある大阪に帰りました。当時はまだ交通事故自体が珍しい時代。しかもかなり悲惨な事故だったらしく、物心がつく頃もまだ周りは父の事故を私に隠していました。そのせいでしょうか、心が深く傷ついたという記憶はありません。しかし、死に対して独特の感覚を持つようになっていきました。・好きなだけピアノを大阪に帰った母は生命保険会社に就職し、その後トップセールスレディーに上り詰めました。そして実家の近くに家を買いました。子どもの頃の私は、自分の家と母の実家を祖母に連れられ行ったり来たり。ただ、実家の方にはアップライトピアノがあったので、私は好きな時に好きなだけピアノに触れることができました。私立の幼稚園に入園しましたが、園生活に馴染めなかった私に困った母が、絵画教室とピアノ教室に通わせてくれるようになりました。・習い事絵画の方は小4まで続けました。何度か児童画コンクールに入賞し、先生にも可愛がって頂きました。しかし、先生のフランス留学を機に辞めてしまいました。ピアノの方は先生の厳しい指導のもと、様々な曲を学ぶことができました。ただ、中学生になり、先生の期待にだんだん息苦しさを感じるようになって来ました。・諸行無常の響きありちょうどその頃、それまで羽振り良くやっていた伯父の事業が急速に傾き始め、ついに倒産。私たち親族の生活も、一時は私服の警察官に見張をお願いすることになりました。そのため、週に1回、夜に長時間受けていたレッスンにも、夜は危険とのことで通えなくなり、週2回の明るい時間帯で通うようになりました。中1の国語の授業で平家物語が取り上げられた時のこと、「諸行無常の響きあり.......盛者必衰の理をあらはす〜」の下りが心につき刺さる、そんな子どもでした。・やればできる中学は公立だったため、高校を受験しなければなりません。1クラスが42名、1学年が19クラスという大規模校でもありました。中1の冬は伯父の会社の倒産。その後数ヶ月は母と私がクラス決して広くないマンションに伯父一家をかくまう生活。更に数ヶ月後には祖母が倒れて入院。日曜日の午後、テスト勉強一式を持って私が病院の付き添いをしたこともありました。それが原因ではないものの、中2までは成績も中程度。でもなぜか自分に自信を持っていて、「やればできる」と信じていました。また、その頃から漠然と音大に入りたいと思うようになっていました。・夢をかけた努力ただ母の方針で、音大に行くのならば公立高校に入らなければなりません。また、入学した後もピアノの練習時間を確保できるよう家から近くて、しかも何とかついて行くだけの最低限の勉強で大学に進学できそうな公立校は一校しかありません。1000人近くいる生徒の中で上位3%に入らない限り、私の条件に合う公立校には入れません。なんとか夢を叶えようと、まずは関西二期会の理事をされていた声楽の先生の門下生になりました。そして塾。数学と英語の塾に通い、中3の4月から半年かけて9教科の点数をひたすら上げていきました。・努力の甲斐あり第一志望に入学。それと同時に中3時、一年間お世話になった声楽の先生から音大のピアノ科受験のための先生を紹介して頂き、その先生の門下生となりました。この先生こそ私の運命の師匠。今もお世話になっています。楽しい高校生活を送りつつ、この先生のご指導のもとぶじ、大阪音楽大学ピアノ科に入学することができました。・初めての生徒は友人?大学に入る直前、他大の保育科に入学が決まった友人のピアノ指導をすることになりました。これが私のピアノ指導の始まりです。この後続く学生時代、幼児から小中高校生はもちろん、大学の保育科受験生、社会人にご老人....あらゆる年齢、立場の方々のピアノ指導をさせていただくチャンスに恵まれました。・このままじゃいけない大学3年次、子どもの頃から世話になっていた伯母が、癌で余命一年となってしまいました。たまたま大学近くの病院に入院していたこともあり、最後の3ヶ月ほどは私も付き添いで病室に泊まり込み、そのまま大学に通う日が多くなっていました。伯母は専業主婦。そのせいか、バリバリ外で働く母とは気が合わず、実は私もいつの間にか伯母と距離ができていました。しかし、病室で一晩中伯母の話を聴くうち、私は突然、「こうしてはいられない!」と思うようになりました。そして、今の自分が心から望むことに精いっぱい努力しなければ!と、様々な条件から神戸大学大学院の院試を受けることに決めたのです。・翌年の春、無事院生となることができました。大学院の2年間は本当に楽しく充実したものでした。修士で終了した後、養護学校の高等部で講師をしながら、院生時代にお世話になった先生の研究論文作成チームに入らせて頂き、フィールドワークにも参加。同時に演奏活動も続けていました。・結婚......そしてつくばへ1990年、結婚を機に大阪からつくばにやって来ました。友人・知人が全くいない土地です。とにかく地域社会との関わりを持ちたい一心から近所のヤマハで講師として稼働を始めました。1991年に長女、1993年に次女が生まれ、その都度産休を取るも、その後2002年まで稼働しました。・子育てで苦戦女の子だから育てるのが楽でいいね、と声をかけられることも多かったのですが、とんでもない!!ちょっとヤンチャな男の子を育てるよりも、おそらくずっと大変な子育て期間だったと思います。私自身が疲れ果てて、病院に点滴をうちにいくこともしばしばありました。・母を引き取る母が一人で暮らす大阪には年に数回しか帰れません。そんな中、1997年のお正月に帰省した時、母の異変に気付きました。このまま大阪においておくのは無理と判断し、つくばに戻るとすぐ、土地探しを始めました。そして、その年の年末には大阪から母を呼び、一緒に暮らすようになりました。・自宅レッスンに本腰を母は、つくばに来たことで以前よりずっと良い状態で暮らせるようになり、私は母に助けられながらヤマハとは離れ、自宅レッスンに本腰を入れ始めました。生徒さんはどんどん増えて、50人に。このあと、当然ながら子どもたちの進学・進級がありましたが、今思えば申し訳ないほど仕事優先の日々でした。・子育て…勉強では落第生上の子は早生まれ。うちの子大丈夫なんだろうか?生徒指導とは違う難しさがそこにありました。小学校1年生のテストなんて100点取れて当たり前かと思っていたのですが、見事に取れません。悩みながらも、私にできることはただ一つ。ピアノを教え始めました。・子育てとピアノ苦戦する学校の勉強とは裏腹に、ピアノは初めから驚くほど上達が早く、譜読みも暗譜も非常にスムーズでした。短い練習時間でピティナコンペティションの予選も100%の合格率でした。それでも、相変わらず学校での評価は低いままでした。・馬鹿と天才は紙一重と言うものの勉強面で低迷を続ける我が子に業を煮やした私は、小学校の担任の先生に直談判したことすらありました。「うちの子の成績、なんでこんなに悪いんでしょうか?」中学校の成績もなんとか中間層。中学から始まった英語のテストなんて、初めはとても簡単なのでほぼ全員が満点をとります。しかし、それすら惨憺たる点数。中1の夏休み、私は英語の塾に放り込みました。個人宅での1対1授業。転ばぬ先の杖…..いえ、ほとんど転んでいましたから。しかし、今思えばうちの子にも成長のタイミングに合わせた指導や、その子の性質や内面を見極めたポートが当然ながら必要でした。自分の仕事の忙しさを言い訳に、私はそんな大切なことをすっかり忘れていたのです。中1の我が子は放り込まれた塾で、初めて英語の勉強の仕方、語学を学ぶことの楽しさを知るようになり、英語の成績はもちろん、他の教科の成績もメキメキと上がっていきました。・ピアノと勉強の両立全く家庭学習などしなかった子でも、目に見えて成績が上がったり、それに伴って周りの評価が変わると多少は行動が変わるものです。不思議と家でも勉強をするようになった我が子は、ピアノの練習内容、練習方法も自分で考え、改善し、学業との両立を確立しました。その後、二人の子ども達はピアノを続けながら同じ県立高校に進学しました。そして二人とも東京大学に入学しました。・子育てとピアノ指導このような経験から、ピアノ指導においては生徒さんお一人お一人の成長過程をしっかり見極めながら、ご本人に寄り添った指導をすることを一番に心がけています。具体的にはまずしっかり話を聴くこと。私がどう頑張ったところで、親御さんの代わりはできません。だからこそ、そのお子さんにとって親ではない・友人でもない・学校の先生でもない、だけどいつも近くにいて、信頼できる大人....そういう存在でありたいと願いつつ、ピアノ指導にあたっています。・介護…ピアノ教室は?しかし、ここでまたしても大問題。少しずつではあったのですが、母の言動は普通ではなくなってきていました。そしてついに「アルツハイマー型認知症」と診断されました。恐れていた昼夜逆転生活と徘徊が始まりました。ある日、ついに行方不明。警察からの電話で母に再会できたのは夜中でした。産み、育て、今までいっぱい支えてもらった母を、今度は私が支えていくしかない。そう決めた瞬間は、仕事を続けることを諦めた瞬間でもありました。・一筋の光丁度その頃、新型コロナウィルス感染拡大。茨城県も自粛要請が出て、レッスンを2週間休ませていただきました。まとまった時間を得たため、買ったまま読んでいなかった本を読んだり、レッスン動画を見たり・・・・そんなことをしているうち、友人からオンラインレッスンの話を聞きました。仕事を辞めると決意した私には、関係のない話であったはずでした。ところが、熱く語る彼女の話にいつの間にか引き込まれた私は、気が付くと彼女に質問していたのです。「それ、どうすればいいの?」色々な手順を聞き、彼女から試験的にオンラインレッスンを受講。その後、早速生徒さん全員に連絡をしてオンラインレッスンを始めました。・ピアノが好き、教えるのが好きやはり私はピアノを教えるこの仕事が好きで、辞めるなんてできない!心の底からそう思いました。さらに、続けるのであれば究極の目標は生徒さん一人一人の幸せ。私の勝手でやめてはいけない。そいて一人の取りこぼしもあってはならないと確信しました。長く仕事をしていればこそ、当たり前に家族の問題、自分自身の問題、社会全体の問題・・・・色々あって当然だと思います。それでも家族や友人、生徒さん方やそのご家族にまで助けていただきながら、今もこうしてピアノ教室を続けることができています。本当に辛い時、困難に押しつぶされそうになった時、救ってくれるのは人の愛情・感動・感謝の心ではないか〜今までを振り返ってそう思います。そこに、ピアノとともに生きてきたことで培われた様々な力がプラスされれば、最強かつ最高の自分を創ることができるとも、確信しています。こんなふうに生きてきた私が、日々のレッスンのことや、それにまつわる生徒さん方のこと、私自身の自分育てとこれまでの子育て〜その中で起こった数多くの失敗や反省、新たな決意や気づきなどを綴っています。保護者の皆様・子育て真っ最中で、漠然とした不安を抱える多くのママ達と共有することができれば嬉しいです。また、同世代の同業者の皆さまや、職種や年齢は違っても同じ時代を生きている様々な立場の方々とも何か共有できるものがあるといいな〜とも思っています。どうぞよろしくお願いいたします。つくば市ピアノ教室・つくば市 渡辺ピアノ教室 渡辺貴子つくば市立手代木保育所・つくば市立手代木南幼稚園・つくば市立松代幼稚園・いなほ幼稚園・吉沼幼稚園・二ノ宮幼稚園・天川(土浦)幼稚園・白帆幼稚園・キッズクリエーション・つくば市立手代木南小学校・松代小学校・二ノ宮小学校・光輝学園・手代木中学校・竹園西小学校・竹園東小学校・吾妻小学校・吾妻中学校・竹園中学校・茗渓学園・茨城県立並木中等教育学校・常総学園・茨城県立竹園高校・茨城県立土浦第一高校、地域としては吾妻、春日、竹園、二ノ宮、並木、松代、葛城、研究学園駅周辺、筑西市からも生徒さんが通ってくださっています。・松代ショッピングセンター「たいらや」近く。・千上公園近く。・手代木中学校近く。・オンラインレッスンも実施中〜体調不良時・保護者様の送迎が不可能な時・悪天時等にたいへん便利です。◉教職免許 中学校・高等学校、共に1級免許◉ナチュラルフード・コーディネーター2020年◉一般社団法人「フィギャーノート普及会」 ベーシックインストラクターに、認定されました。◉「育脳ピアノレッスン認定教室」になりました。2021年◉「ピアノ de クボタメソッド」認定講師になりました。◉「こども知育ピアノ協会」認定教室になりました。◉「ペース」教材を用いて、2歳からの幼児さん向け「楽しみながら感性と生きる力 を育てる」音楽教育を実践中◉千葉テレビ「モーニングコンパス」に出演させて頂きました。 テーマは「自己肯定感」。 2022年◉「ピアノこころの保健室」活動に協賛アクセスhttps://g.page/tsukubapiano?shareホームページ https://iiko-piano.com/フェイスブックhttps://www.facebook.com/tsukubatakako/教室紹介動画 https://youtu.be/VWkeAwkT3YUツイッター https://twitter.com/dec1yuKEOxtw7qtインスタグラム https://www.instagram.com/tukuba_watanabe_piano/?hl=ja陽子の部屋 https://youtu.be/DIUIk-lgHrU
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