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美濃加茂市・可児市・音の森ピアノ・リトミック音の森ピアノ教室 ♪ 森まちこです生まれも育ちも岐阜県美濃加茂市。そんな美濃加茂市でピアノ教室をはじめて30年程になります。自然もいっぱい、でも生活には全く困らない、ほどよい田舎の美濃加茂市が大好きです。日々生徒さん達と楽しくピアノレッスンをしています♪そんな私のプロフィールです岐阜県美濃加茂市に教員の両親の次女として生まれる両親とも音楽の経験はなかったが、家には教員だった母が教材として使うレコードがたくさんあり、またアップライトピアノもあったので、音楽が身近にある生活でした。母が子供の頃はまだ戦時中でピアノはおろかオルガンさえ弾いたことがなく、教員になるために大学で初めてピアノを弾く事になり大変苦労したそうで、娘(姉と私)にはピアノを習わせておくべきだとの考えから、自然とピアノを習う事になったようです。小さい頃の記憶として母はよく「女の子は手に職をつけるか、公務員になるのがいいよ」と言っていたので、子どもだった私は、なんとなく両親と同じ教員ではなく手に職をつけるのがいいかなぁ…ぐらいに思っていました。練習サボリ魔の幼少期私は4歳からピアノを習い始めたのですが、自分からピアノをやりたいと言ったのかは記憶にありません。母の意向もあり、姉(8歳上)がピアノを習っていた流れで同じ先生の所に通うことに。両親はともに教員で忙しかったからでしょうか、「練習しなさい」と言われた覚えはないのですが、姉の弾いている曲を真似てみたり、宿題ではない曲をよく弾いていました。子どもの頃は譜読みが苦手(面倒)でした。レッスンに行くと先生の見本の演奏を思い出しながら、その場で音拾いをしているような状態だったので、いつも「練習をしてきなさい!」と叱られていました。それでもサボリ魔だった私は、宿題になっている曲は練習しないで、耳コピした曲や友だちが弾いていた曲ばかり弾いていました。おかげで教本はちっとも進まず、友だちとは差ができてしまう始末。そんな私を、先生は根気強くあの手この手で練習をしてくるように考えてくれました。幼少期に習っていた先生の根気強く色々な方法で練習に導いてくれたことが、後の私のピアノ指導者としての心構えに強く影響を与えています。ピアノを習っている=上手いと勘違いの小学校時代ピアノの先生がソルフェージュに力を入れていたおかげで、聴音は得意でした。耳がいいのは音楽をやる上では良かったのですが、私は相変わらず譜読みを面倒くさがり、耳から覚えて弾くクセを付けてしまい、これが良くなかった。小さい頃は耳コピでなんとか弾くことが出来ても、学年も上がってくると曲も長くなりどんどん難しくなります。たとえ耳コピで音が分かったとしても、練習しないで弾けるほど簡単な曲では無くなっていたので、一曲がなかなか合格しません。4年生の頃だったと思います。実力が伴ってもいないのにピアノを習っているというだけで合唱の伴奏者に立候補してしまい、ピアノの先生に泣きつきました…根気強く教えていただいたおかげでなんとか弾けるようにはなったものの、伴奏者として弾くにはお粗末な演奏だったので、結局普段からちゃんと練習をしている同じピアノ教室の子が伴奏者に選ばれました。今から思うとそれほど難しい曲ではないが、当時の私は譜読みは嫌い、練習はサボってばかりだったので伴奏者になれるはずもありません。懲りずに何度か伴奏者に名乗りをあげるも、同じ学年にとても上手な子(きちんと練習をしていて教本も私よりずっと進んでいた)が、ほとんどの伴奏を任されていました。天邪鬼な私は、出来ないとなると変に負けたくない気持ちが出てきて、伴奏者になりたい一心でピアノを練習し始め、練習をすればそれなりに弾けるようにもなり、ようやく「練習しなきゃ弾けるようにならないんだ…」と気がついたのでした。やっと6年生ぐらいになって伴奏の機会を与えられ、嬉しかったことを覚えています。気持ちは音楽の道へ…中学時代中学生になり部活動は吹奏楽部に入部。ピアノは一人で演奏することが多く孤独な感じがしていましたが、部活動を通して大勢で音楽を作り上げていく楽しさを知りました。ピアノ以外の楽器に触れることもとても刺激になり、自分の担当した楽器以外も友達から借りて吹かせてもらったりしました。後になって思うと、部活動で色んな楽器を体験したことは、ピアノしか知らなかった私に音色の幅を持たせてくれました。また、それまで気にしていなかった呼吸を意識するようになったのはピアノを演奏する上でとても役立ちました。吹奏楽を経験し、大勢で音楽を作り上げることは大変でもあり達成感も大きいと感じました。そのことにより、ピアノは一台でオーケストラのように色んなパートを担当もするしソロも出来る楽器なんだと再認識し、ピアノの素晴らしさを改めて感じることのできた中学時代。ピアノの練習はというと…小学生の時のようなサボリ魔ではなくなったものの、相変わらず譜読みは苦手なまま。音符が読めないというより、細かいたくさんの音符を読むのがただ面倒だったのだと思います。そして新たな問題が…私の子どもの頃の教本といえば「バイエル」右手がメロディーで左手が伴奏という典型的な音楽です。和音の進行も非常に分かりやすい。今の時代のように、小さな頃から様々なタイプの音楽に触れることの少なかった昔、中学1年生になった私にはバッハのインヴェンションを練習していて、ポリフォニックの壁にぶつかりました。多声部の音楽が同時進行することが全く理解できず苦戦することに。ピアノの指導者になってからこの頃の経験を踏まえて、早い時期からポリフォニックな音楽に触れるべきだと考え、今私の教室では教材に取り入れレッスンをしています。さて、中学生になると、その先の進路を考え高校を受験しますね。私は小学生の頃になんとなく思っていた「女の子なら手に職を」を少しずつ意識するようになり、それなら好きな音楽を!と考えるようになりました。 両親はというと「好きなことをやればいい」との考えだったのか、わがままをいつも押し通す私に呆れたのか、音楽の道に進むことに反対はしませんでした。そうして、「音楽の道に進みたい」…と希望した私に、幼少期から習っていたピアノの先生が「もっと本格的にピアノを勉強するなら」と言って紹介してくれた教室に中学の途中から代わり、そこから真剣にピアノに取り組むようになったのでした。高校(音楽科)に入学し開眼高校は鶯谷高校(当時は女子校)音楽科に入学。美濃加茂市から音楽科へ進む子は年に1人いるかいないか…高校まで電車とバスを乗り継いで一時間ほどかかりましたが、好きなピアノが弾けることが嬉しかったことと、みんなが地元の高校に進学するのに、定期券で電車に乗るのがなぜかカッコ良く感じていました。ただ1時間という通学時間が勿体なくも感じ、また多くのクラスメイトが学校にもっと近いことが羨ましくも思いました。音楽科ですから普通科と同じ勉強+音楽専門の勉強と実技を学びます。高校一年生最初の実技試験、自分なりに頑張って練習したつもりでしたが、結果は良くも悪くもなく真ん中より少し上…もちろん一番ではありません。このことが何だかすごく悔しく、また自分より家の近いクラスメイトに絶対に負けたくない!と奮起。(当時は岐阜市は都会で美濃加茂市は田舎と思っていて、田舎から通っているというコンプレックスがあったと思います)結果、そこから私は猛烈に練習を始めました。朝は用務員のおじさんが学校を開けにくる時間(6時半頃)には学校に到着し、鍵が開くと急いで練習室に向かいホームルームまでの約2時間をまず練習。放課後は電車の時間(1時間に1本しかない)に合わせて1時間ほど練習してから帰宅し、帰ってからも自宅でまた練習…そんな生活を3年間続けることに。勉強するならピアノを弾く家が遠いことを言い訳にしたくなかったこともあり、「勉強する暇があったらピアノを弾く」くらいの勢いだった思います。今でも思い出すのは、朝ごはん用に母がにぎってくれたオニギリを1個持って(弁当は自分で作っていた)、父がまだ暗い中駅まで車で毎日送ってくれたこと。色々と口出しはせず好きなことをさせてくれ、協力を惜しまなかった両親には本当に感謝しかありません。あれほど幼少期は譜読み嫌いだったのに、たくさんの曲をたくさん練習すると譜読みのコツも自分なりにつかめ、高校の頃には全く苦にならなくなっていました。むしろ、苦手だからと言って譜読みが遅かったら曲をレッスンに持っていくことができません。音楽科にはピアノ実技専任の先生が何人かみえ、高校からは海外留学から戻ったばかりの男の先生に師事しました。とても優しい先生でしたが、高校のレッスンではいつも暗譜で曲が弾ける(完成している)状態にして曲を持っていき、そこからしかレッスンを見てもらえないので、「片手でなら…」「ゆっくりなら…」なんて呑気なことは許されませんでした。おかげで譜読みの力はすごく鍛えられました。もう一つ良かったことは、子どもの頃にピアノを習っていた先生が熱心に取り組んでくれていたソルフェージュと楽典が、高校に入ってからもの凄く役立ったことです。小学生の頃の私は「音程?なんだそれ?」くらいにしか思ってなく、とにかく先生が覚えやすい様に大きな表に書いてくれたものを丸暗記した程度でした。訳も分からずやっていた勉強ですが、おかげで高校のソルフェージュと楽典の成績は良かったので、その点でも最初のピアノの先生は色々教えてくれていたんだなぁ、と自分もそうありたいとピアノを教えるようになって思います。一つ目の挫折さて高校に入って奮起したおかげでピアノ実技の成績も上がり、3年生になりいよいよどこの大学に狙いを定めるか…となった時、音楽科の先生方や両親からは東京の音大を勧められるも、当時はあまり遠くに行きたくないと思い(今は遠くに行けば良かったと少々後悔)愛知県立芸術大学を目指し、とにかく練習練習の日々だった。いざ大学受験!当時は共通一次試験の時代。二次試験は実技一次試験と実技二次試験、その後に楽典ソルフェージュの試験だったように記憶しています。実技一次試験はショパンのマズルカを4曲(今とは随分課題曲も違う)無事一次試験通過。そして実技二次試験。課題は古典派から指定されたソナタ全楽章…私はベートーヴェンのソナタを選曲。ベートーヴェンは小さい頃から好きで、自分としては得意な方だったこともあり落ち着いて試験に臨めた…のはずが、まさかのミス…1楽章・2楽章、練習通りに弾け最後の3楽章…どうしてそんなミスをしたのか未だに分からない(単に練習不足と言えばそれまでなのだが)、それまでに一度もしたことの無かったミスに動揺してしまい、ミス以降全く集中の欠けた演奏になってしまった。ミスをしたことがショック過ぎて泣きながら公衆電話から高校の時のピアノの先生に電話をしたことを覚えています。結果はやはり不合格。この後すっかり人前で弾くことが怖くなり、今でも人前は苦手のままです。二つ目の挫折大学は滑り止めで受けていた名古屋音楽大学に進学。私の大学生時代はまさにバブル絶頂期で。受験に失敗したショックを引きずったままピアノそっちのけで遊ぶ毎日。入試でのミスがトラウマのようになり、大学生になってからも人前での演奏が怖いままに。だからといって音大なのでピアノを弾かないわけにもいかず、何とかそのトラウマを克服したいと思い悩みました。大学生になり浮かれた気持ちで遊んでいましたが、達成感のない毎日はつまらなく、自然とまたピアノに向き合うようになりました。ピアノで癒される人前での演奏は苦手でも、これまでずっとピアノ毎日弾く生活をしていたので、自分の心を癒してくれたのもやはりピアノでした。4年生になり、せっかく音大に入ったからには演奏会に出たいと思い大学の定期演奏会のオーディションにチャレンジ。しかし…またやってしまった…ありえないミス。曲の冒頭で音を思いっきり間違えてしまった。ミスタッチどころではなく全く違う音を弾いてしまい、それに焦った私はもう一度初めから弾き直してみましたが、すっかりパニックで最後まで弾ききったのが不思議なくらいです。結果はやはり落選。大学受験に続いて二度目の大きな失敗…立ち直ったと思っていたのに、逆にますます舞台に立つことが怖いと思うように…この大きな二つの失敗から立ち直ることなく大学を卒業。手探りの教室作り大学を卒業し1年だけヤマハでピアノ個人レッスンを受け持ち、さらに自宅でも教室を開きピアノを教え始めました。困ったことに身近なところに小さい子がおらず、また教室を開いたはいいが宣伝の仕方も分からず、全てが初めてのことばかりで手探り状態。今のようにネットで情報が手に入る時代ではなかったので、電話帳で看板屋を探して教室看板を頼みに行ったり、ワープロ(今は絶滅した笑)で手作りのチラシを作って配ったりしました。母の知り合いのお子さん2名から始まった教室も、地道な営業活動?で少しずつ生徒が増えていきました。大学卒業後22歳で結婚、ヤマハでの講師は1年で辞め、実家で始めたピアノ教室だけに集中。周りに教室も少なかったからか数年で生徒数が30名ほどになり、子どもが生まれるまでその状態を維持し、教室単独で発表会も開催出来るようになりました。子どものための人生~娘29歳で長女、32歳で長男を出産。長女を出産後、実家の近くに自宅を新築し教室も移転。実家は近かったものの両親が高齢であまり頼ることが出来なかったので、生徒募集は特にしないで口コミで来てくれる生徒さんでレッスンを続けました。募集をあえてしなかったので生徒数は減りましたが、その分子どもと一緒に過ごせる時間が増え、生活はすっかり子ども達中心に。さらに娘がピアノを始めた4歳からは娘中心の生活に。恥ずかしがり屋でおとなしい娘でしたので、何か一つ人より出来ることがあったら本人の自信になるかと思い、身近にあったピアノを選び、小学校の低学年までは私がレッスンをしました。しかし、よく同じピアノの先生方に「我が子は教えれない!」と話を聞いていた通り、自分の子には冷静に指導がなかなか出来ず感情的になってしまい、娘には厳しいレッスンだったと思います。レッスンに来る生徒さんが練習してこなかったと言っても怒ったことはないんですよ!ママ先生、卒業このままでは娘に良くないと思い、私の大学時代の恩師(当時は教授)にレッスンをお願いし、先生のご自宅まで毎週高速道路を使って1時間以上かけレッスンに通うように。先生は、私の大学生当時大人の生徒さんしかレッスンされていませんでしたし、コンクールの審査員も務められる現役のピアニストでもいらっしゃいましたが、その頃は娘と同じくらいの歳のお子さんも何人かレッスンされるようなっていて、娘は楽しんで通うようになりました。高い技術指導で娘も随分上達し、コンクールにもたくさん出させてもらいました。コンクールやレッスンでお友だちも増え、良かった面もたくさんあります。ただ本来おっとりした性格の娘に競争心はなく、舞台の上で綺麗なドレスを着てピアノを弾くことは大好きでも、コンクールで賞を取るための演奏には向いていませんでした。毎月何かしらコンクールに出るという生活は大変でした。またいつしかコンクールのためのレッスンになり、ピアノが楽しくなくなっていました。これが娘が中学生になっても続き、マイペースな娘にはコンクールに追われる生活が負担になり、また私自身もコンクール漬けの生活に疲れてしまいました。楽しく弾いていない娘の姿に「これは本当ではないな」と感じ、中2の時に教授のピアノレッスンを辞めさせることにしました。それ以降娘をピアノをどこかに習いに行かせることはしませんでした。まさかの決意娘自身ピアノが嫌いだったわけではなく、コンクールのためにピアノを弾く、コンクールのための練習が嫌になっただけなので、レッスンを辞めてからは自分で好きな曲を弾いたり学校の合唱伴奏をしたりと彼女のペースでピアノを楽しんでいました。すっかり趣味でピアノを弾いてた娘のピアノには私もノータッチでした。娘は小さい頃からハイレベルなレッスンを受けていたためか、大抵の曲を自分で弾くことができたのですが、「自分にはピアノしか得意なことがないから音楽科のある高校を受験したい」と言い出した時はビックリしました。私自身高校から音楽科でその大変さ(遠いところを通わなければならないこと、普通科と同じ勉強をしさらにピアノも練習しなければならない)を知っていたので、随分娘の志望校を決める時には反対をしました。音楽科では普通科の勉強+音楽の専門課程の勉強が出来て良い面もありますが、将来の道が音楽方面と限られてしまうので、出来れば普通科に進学して欲しいと考えました。しかし娘の意思は固く、自分で願書も用意し、学校への行き方を調べ入試当日も一人で電車に乗って出かけて行きました。音楽科の試験曲に至っては、レッスンを辞めてしまっていたので、これまでに弾いたことのある曲を自力で練習して弾いたという、なんとも無謀な高校受験。そうまでして通った高校の音楽科、本人にはとても合っていたようで、遠くを通うことをものともしませんでした。また高校でピアノを習うことになった先生が大変熱心にご指導くださり、娘は充実した高校生活を送りました。その後、名古屋芸術大学音楽学部ピアノ専攻を卒業し、今は中学校で教員をしています。子どものための人生~息子息子は小学2年生から野球を始め、その当時夫は息子のチームの監督でした。それまでの息子はというと、娘に私がかかりっきりになっていたため、放ったらかしの状態でした。流石に小さい時は、娘のピアノの間は実家に預けたり夫が世話をしましたが。小4からは野球の試合も始まり、丁度その頃娘がピアノを辞めたこともあり、生活は息子と野球中心に。土日祝日はとにかく野球に付きっきり、暑い日も寒い日もグラウンドに親子で通いました。中学から硬式野球のクラブチームに入ったため練習時間も長く、また夫も私も保護者役員となり、朝グラウンドに息子と一緒に行き帰るのはすっかり暗くなった夜。大変ではありましたが、楽しい仲間と一緒に濃い時間を過ごし、息子が中学野球を引退するまでこの生活が続きました。この頃娘は高校生となり、自分が希望して入った音楽科で素晴らしい先生に出会い、先生の指導のもと力をメキメキつけていきました。(ほぼ娘は放ったらかし)さて息子はというと、高校でも野球を続けることを希望し、そこそこ野球の強い高校に進学。また野球漬けの毎日になりました。さらに、私までまたもや野球部の保護者役員になり、息子が野球部を引退するまでみっちり野球の日々を過ごすことに。ピアノからは縁遠いスポーツの世界でしたが、集団で一つの目標に向かって取り組んでいくのは、自分が中学生の頃に経験した吹奏楽部に似たものがあると感じ、大変貴重な経験ができました。気がつけば息子が野球を始めて10年、親子共々野球漬けでしたが、あっという間で楽しい10年だったと思います。これからの人生~研鑽の日々子ども達のために過ごした30代と40代、その間口コミだけで細々とやってきた教室も生徒さんが高学年になり塾や受験で辞める子が増え、このままでは発表会自主開催が危ぶまれる状況に…しかし、生徒さんが少なくなった分自分自身の時間には余裕があり、また息子の野球も終わったので土日も自由がきくようになりました。これは自分が勉強する絶好のチャンス!今までのレッスン内容を振り返って改善点を見つけだしたり、気になっていた教材の研究に取り掛かり新しいレッスンカリキュラムを作ったり、20年近くストップしてしまったリトミックの勉強をし直したりと、とにかく行動あるのみ!と思った矢先実家の父が倒れ、高齢の両親の世話を姉とすることに…日々体力の衰えていく父と認知機能の低下した母。細かな食事制限もあり大変なことばかりですが、それでも何とか過ごしています。そんな両親の世話もあり諦め掛けていた自分の勉強ですが、新型コロナウイルスの影響で色々な資格講座がオンラインに!自宅で勉強ができるのは本当にありがたいですね。昨今レッスンを希望される生徒さんも低年齢化してきているので、興味のあった育脳について勉強し「ピアノdeクボタメソッド」認定講師資格を取得。リトミックとベビーマッサージの勉強もし、レッスンに取り入れています。こんな先生に!子どもの頃練習のサボリ魔だった私のことを、頭ごなしに叱ることなく手を替え品を替え練習できるように導いてくださった最初に習った先生は、私のピアノの先生としての見本です。そして、中学時代に習った先生にはソルフェージュを鍛えていただき、高校で習った先生にはピアノ演奏の奥深さを教えていただき、大学時代の恩師には音楽を通して人生を学びました。素晴らしい先生方に出会えたことに感謝しかありません。私もそんな先生方に近づけるように、これからの人生邁進してまいります。私の教室、音の森ピアノ教室では、0歳から音楽に触れていただける「リズムベビーマッサージコース」から、憧れの曲を弾いてみたい初心者シニアの方向け「大人・シニアピアノコース」まで、幅広い年齢の方にレッスンを受講いただけます。素敵なピアノライフをご一緒に♪音の森ピアノ教室には、山手幼稚園・森山学園・たから幼稚園・遊々こども園・山之上こども園・ひろみ保育園・山手小学校・太田小学校・古井小学校・蜂屋小学校・加茂野小学校・帝京小学校美濃加茂東中・美濃加茂西中・美濃加茂高校・加茂高校・可児高校などからお越しいただいております
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