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ピアノ教室の母の元で・・・幼少の頃幼稚園の入園当時は、うまく馴染めず数ヶ月遅れて入園したようですが、私の記憶の中の幼稚園時代は、友達と一緒に鉄棒で遊んだり、教室で友達とお絵かきをしていたり、楽しく遊んでいた記憶しかありません。父は小学校の音楽専任教師。母は自宅でピアノ教室を開いていました。そういった環境なので、私は3歳からピアノを母から習いました。また、兄はバイオリンを習っていたので、私も幼稚園の2年間、同じくバイオリンも習いました。発表会に慣れていたせいか、当時は人前に出ることにあまり抵抗がなかったと思います。幼稚園でのお遊戯会の時のエピソードとして、「みんな里美ちゃんを見て動いてね。」と先生が言ってくださってました。そして、幼稚園の発表会本番で、私が、手を繋いだクラスメイトの先頭でを歩き、ステージに出る役だったのですが、みんなの手を引っ張ってステージに出た瞬間、頭の飾りが目にかぶって前が殆ど見えないのに、ちゃんと踊らなくちゃ!と思って、そのまま進んで最後まで踊り切った、というようなことがありました。こんな頃から度胸だけはあったようです。休みの日は、クラシックやわらべ唄など、自宅でいつも音楽が流れていた気がします。テレビの音楽番組もよく見ていて、題名が定かではないですが、『家族対抗ドングリ音楽会』、ペギー葉山さんが司会をしていた?ダークダックスとか、いろんな少年少女合唱団が出てくる歌三昧の番組とか、『みんなの歌』、そして、毎週土曜日の夜は、『8時だよ、全員集合』を観てました。これが音楽番組なのかと思われる方もいらっしゃるでしょう。でも、ドリフターズのドタバタ劇の後、必ず歌手が二人ほど歌い、最後には、聖歌隊に扮した出演者が、これまた寸劇を交えながら、最後には上手に歌う、そしてフィナーレは、ババンバ バン バン バン。音楽好きな幼稚園児には、これは十分歌番組でした。ある時、いつも舞台の端で歌っている3人のバックコーラスのお姉さんたちだけで、ステージの中央で歌いました。その歌が、本当に上手で、かつ、ハーモニーが美しく、本当に綺麗だなあ、と感動しました。今まで、中央で歌う歌手を見ても、そこまで思ったことが無かったのに、このバックコーラスのお姉さんようになりたいな、と初めて思いました。 大人っぽい小学生1年生のある時、父が知り合いから映画音楽全集をいただいてきて、「ゴッドファーザー愛のテーマ」や、「007ゴールドフィンガー」、「男と女」など、小学1年生ではまず見ないであろう名作の名曲にはまってました。タイトルだけでは、何の映画かは全くわからないけれど、様々な楽器の音色や、歌声、リズムを絵の具に見立てて、それで色付けされた景色が自然と頭に浮かび、ずっと聴いていました。2年生の時に、小学校の校歌ができて、私が卒業するまで、全校集会の校歌の伴奏は、私がほぼ全て弾いてました。ピアノは、1年生までは母に習ってましたが、私が甘えてレッスンにならなくなったので、2年生になって母から卒業、1人で40分バスに乗って、母の知り合いの先生のところに通うことになりました。しばらく一人で通いましたが、通うのに疲れてしまい、今度はいとこのお姉さんに習うことになりました。そしてまたしばらく通うと、今度は大学生のいとこが忙しくなってきて無しになり、小学校を卒業するまで、近所の先生のところに通いました。4年生の時の担任の先生は、音楽の授業が大の苦手でした。その担任の先生に頼まれて、1度だけ、先生に変わって、クラスメイトに、一人で授業をしたことがあります。私の初の授業は、クラスメイトに、ひたすら歌とリコーダーを演奏してもらったと思います。終わった時、「ひゃ〜、やっと終わった!」と思った覚えだけが残っているから。しばらくして、担任の先生がまた私を呼び、「さとみちゃん、また音楽の授業をね・・・やっぱりこんなこと、ダメだよね。」自問自答されて、この件は終了。6年生の時にはユーモレスクとかモーツァルトソナタなどのレベルの曲を弾いていました。ピアノの練習は、父が見守る中、毎晩8時から30分練習してました。他の習い事は、1年生から琴、絵画、習字を習いましたが、琴は2つ目の免許皆伝を機に卒業。習字は初段。絵画は小4のとき、動物園の写生大会で孔雀を描き、中日新聞賞受賞。賞状と、てんこ盛りの文房具の記念品をいただきました。5年生の半年間は乗馬、そして5、6年には合唱団で歌ってました。中学生〜進路に悩む中学に入って、練習時間は夜9時から1時間に増えました。田舎に住む私の家から通える距離に、某ハイレベル有名音楽大学出身の先生に出会いました。先生の演奏会に行くと、それは素敵な音を奏でる方で、中3の秋まで通いました。親が音楽に進ませたいことはわかっていましたが、ピアノの練習が大変で、楽しめなくなり、昔見た素敵なコーラスのお姉さんのことをすっかり忘れてしまった私は、この辺りから迷走人生が始まります。高校の進路を決める時がやってきました。絵画教室に6年通ったし、美術の成績もまあまあだったので、美術の担任の先生に、美術科の高校に進む事を相談したところ、「お前には、デッサン力はあるけれど、美術の世界で生きていけるほどのひらめき力はないよ。」と。この一言で美術進学は諦めました。滑り止めに音楽高校が受かっていましたが、地元で一番レベルの高い進学高校に合格してしまいました。そこに入学することを、担任の先生に報告に行ったところ、「正直、お前がそこに入ってついていけるのか・・・」と呟かれました。その時は、(先生、なんて事言うの!)と思ったのですが・・・・・(部活は軟式テニス。市大会で3位まで行きました。)高校生〜音楽にハマって進学校に、勉強が好きじゃない私が通うのはやっぱり間違ってました。そしてその後の人生で、こんなにどっぷり音楽の世界にハマっていくとは夢にも思っていませんでした。とにかく授業のレベルがあまりにも高くて、入学したばかりなのに、心の中で、すぐにきっぱりと音大進学にシフトチェンジしたのです。ピアノの先生も、新たにハイレベルな某有名音大出身の先生につきました。でも大学受験のためのレッスンは本当に厳しかったです。なかなか上手く弾けない私に苛立った先生が、「何でこんなのがひけないのよ!」と叫んでグランドピアノをジャン!と弾いた瞬間、ビン!と鈍いけれど高い音がして、ピアノ線が切れました。そしたら先生がニヤリと笑って、「実はこの間も切っちゃったのよねー。」とにかく怖かった。でも、私より小さな手なのに、ものすごいキレのある演奏でかっこよかった先生でした。生まれて初めて、声楽のレッスンにも行き始めました。この時の先生が、優しくて楽しくて、生まれて初めてレッスンを受ける事が楽しいと思えました。そしてこの時つくづく、自分は音楽だけをやってきたんだな〜と、自分には音楽しかないんだな〜と思いました。そしてこの頃から、ただただピアノを弾く、という事をする様になりました。今までに弾いた曲や好きな曲を、時間を忘れて、自分を忘れて...こうやって無心でピアノに向かうことで、精神的なバランスを取っていたのだと思います。2年生の時、進路指導の先生に、音楽に進むと話したら、どこ受けても良いけど、大学を探すのも、要項を取り寄せるのも、全部自分でやってね、と言われました。この先生がクラス担任でもあったので、この突き放し方には驚きましたが、超進学校だから、ある意味、仕方がないですよね。でも、ピアノと歌の先生に全て相談できたので良かったです。ちなみに、3年の時のクラスメイトはその後、東大生、京大生...になりました。さすが!東京の某音大を夢見て、高2高3とその音大の講習会も行きましたが、撃沈。しかし、おかげで、優しくて楽しくてダンディなU先生のいる大学に通えることになりました。話は逸れますが、小さい頃に見たサウンドオブミュージックなどミュージカル映画の影響で、ダンスの世界にも憧れを抱いてました。 スクールメイツそんな私が高2の夏、新聞の片隅で『スクールメイツ募集!』を見つけました。スクールメイツといえば、当時日本で1番有名な(気がする)バックダンサー集団!母に、高2のあと半年だけ通ってみたい、と話すと、即OK! 感謝! 秋から通うことになりました。週2回、授業が終わってホームルーム終了と同時に教室から走り出し、バスと電車を乗りついで、名古屋へGO! 高3になった春には、オーディションを通過して予科生から本科生になり、あいざき進也さん、コント赤信号さんたちが司会をする、新本科生お披露目発表会に出演しました。スクールメイツの黄色いユニフォームで、ボンボンを持って踊りました。そしてその後すぐ、母との約束どおりスクールメイツは卒業。受験生になりました。(部活は器械体操。トランポリンが楽しかったです。バック転とかやりたかったですが、そんなかっこいいことは何一つできませんでした。)大学生活は音楽とスキー名古屋芸術大学音楽学部音楽教育学科声楽選択入学楽しくて優しくてダンディなU先生のおかげで、声楽の勉強は楽しかったです。ピアノは、もうひたすら弾いていました。そして大学といえばサークル活動!友達に誘われ、スキー部に入りました。でもそこは、お花が飛び交いそうなふわふわしたサークルの雰囲気のかけらもない、スポ根的な部活でした。ということで、大学は①ひたすら授業に出て、②空き時間にピアノを練習、③スキー部でオフシーズンも体作って、④片道、バスと電車で2時間半の通学時間✖️2は歌の譜読み時間(朝、電車で新曲を譜読み、その日の夕方の授業で暗譜まで仕上げたこともありました。若いってすごい!)アルバイトは色々やりましたが、楽しかったのは、ピアノ、ソルフェージュの個人レッスン、地元の少年少女合唱団のボイストレーナーです。音楽だし教えることだし、やっぱり元々こういうことが好きでした。4年生の最後に、声楽部門で卒業演奏会に出演できました。ピアノと歌の出演者は、同じ学年のピアノ科、声楽家、音楽教育学科の中から、卒業試験の上位10名ずつが出られるというものでした。ドラマに出てきそうな、闘志むき出しの人もいましたが、メンバーに入ることができ、オペラこうもり、アデーレのアリア(クープレ)を歌い、大学生活の幕を閉じました。中学の先生に中学校の非常勤講師を2年勤めました。その頃、世間は校内暴力が横行していました。その無茶をする生徒たちの気持ちを前向きに集めて、よそ見をさせないで成功体験をさせるため、全校合唱活動を取り入れて、他の学校を救った実績のある先生のもと、私が務めた中学校でも、常に全校合唱する、という取り組みをしていました。毎月全校で歌う合唱の課題曲があるので、全生徒が毎朝合唱練習から始まりました。この取り組みが功を奏して学校は随分落ち着きました。しかし、音楽の授業は生徒によって息抜きの時間。よく見ていないと、合唱の練習の時間はいじめっ子の活動の時間になっていることがしばしばありました。そんなことをさせるものか!ちゃんと生徒を導かなくちゃ!、と頑張りますが、人生経験の浅い私は、気がつけば、音楽の先生とは思えない、怖ーい先生になっていました。これってプロポーズ?そしてその時、大学スキー部の先輩から、そんなドスの効いた怖い声になるなら、仕事やめてくれないと結婚できない、と言われました。後にも先にもこの時しか彼から結婚の話は記憶にないので、もしかすると、これがプロポーズの言葉だったのかな〜?こうして中学講師の幕も閉じました。24歳、次は大手塾のチューター(50人の大学受験生のクラス担任のみ)という仕事をしました。そして声は元に戻り、無事25歳、結婚の運びとなりました。 結婚、仕事ピアノの教室ができそうな住処は見つからず、小さなアパートに入りました。塾のチューターは2年でやめ、もっと稼がなくちゃ、と更に音楽に関係ない販売業をやってみました。一生懸命働いたら収入が増えました。しかしおかしなことに、お金をたくさん貰っても、嬉しい、楽しい、という感情があまり湧いてきませんでした。それどころか、お金が増えるということは、並行して仕事も増えるわけで、営業はいつまでたっても慣れないし...そういうことにだんだん辛くなっていました。病魔に調子が悪いな、と思いながら実家に帰った27歳のお正月。一晩寝て、2日の朝。その日を境に、私の人生が大きく変わってしまいました。朝、眼が覚めると、眼球がガチガチに張って痛くてたまらないのです。病院に行くと、緑内障一歩手前の高眼圧症。その次に喘息。真夜中に、呼吸困難であの世を覚悟したこともありました。そして夕方になると力が身体中から抜けて全く動けなくなりました。ご飯も作れません。食べたら力が出るかと思って夕方菓子パンをムシャムシャ。でも体重が増えるだけでした。熱を測ると毎日37.5度。病院で診てもらうと、まだ自律神経失調症という言葉もあまり聞かない時代だったので、食べてるから太って調子が悪い、便秘を直せば普通に動けるよ、と言われました。東洋医学の治療院で診てもらったら、原因はわからないけど内臓や体の反応は70歳代だということ。とにかく毎日来て、と言われて、熱でフラフラなのに車で片道30分。よく無事故で通ったなあと思います。他に頼るところも無く、半年以上ほぼ毎日フラフラしながら通いました。再起をかけてある日の新聞に、「病院でなんとも無いと言われても調子の悪い人、高血圧の人、運の悪い人... この気功教室に来てください。」というチラシが入ってきました。6項目くらい書いてあって、殆ど私か夫に当てはまっていたのでここに行きました。この頃はもうほぼ寝たきりでした。そこには治療家の先生もいらっしゃって、とにかくいつかは普通の生活に戻れる、と言われたのを信じて通い始めました。実際に、1日ちゃんと起きて仕事や家事ができるようになったのは10年以上経ってからでしたが、今思えば、いつも夫や息子たちが助けてくれていました。感謝!その頃は、買い物に行って車から出ると、まず喘息の発作が出る、とか、お店に着いたら既に疲れてしまって、ベンチを探して20分くらい休まないと立ち上がれない、とか、毎日が大変でした。椎間板ヘルニアも3回ほどなり、腎臓結石もできました。あきらめていたこどもこんな私でも、子供が授かりました。でも、まさかこんな体で妊娠するなんて思ってもいませんでした。(ちなみに生理は年に4回くらいだったので)毎日歯磨きの時に吐き気がしたけれど、おなかがツンと出てきて、そこを撫でるとなぜかホワ〜ッと幸せな気分になるけど、子供がいるなんて微塵も思わなかった。何かの病気だと思い、その日に限って、20分以上自転車漕いで病院に行ってみたら、「おめでとうございます。5ヵ月半の赤ちゃんですよ!」うわーびっくり!5ヶ月半ならお腹も出るよね。それから気功教室で、私でもできる呼吸法を教えていただき、時々散歩して、後は横になってました。まだ携帯電話が無い時代時代だったので、本屋さんにはよく行きました。いろんなアレルギーもよく起こるようになっていて、本屋さんに行くとくしゃみと鼻水が止まらなくなりましたが、いろんな本を買い込んで、布団の中で読んでいました。この時、胎教の本を見つけました。うまくできたらすごいことになる気がしたし、何より面白そうだったので、本に書いてあることをあれこれ試してみました。すると、赤ちゃんに動きはなさそうなのに、体の底から何だか幸せな気持ちに包まれました。そのうち、何をやっても楽しく感じるようになりました。胎児は数を3くらいまで覚えられる、ということをご存知ですか?「1回ずつお母さんと代わり番こで叩こうね。」と言って軽くお腹を叩くと叩き返してきます。トン、トン...「今度は2回ずつね」トントン、トントン...3回は難しかったようでトントントン、トントントントントン...乱打になりました。本当に胎教は楽しかったです。15時間だらだらと陣痛と戦って、3590gの元気な男の子が生まれました。虫とブロックの大好きな子になりました。 病魔と戦いながらの子育て息子は、元気にすくすくと成長していきました。まだ歩かないうちは、一緒に寝起きしていればよかったのですが、歩き出したらもう大変!私の体力がついていきません。でも子供は外で遊ぶのが1番!と思っていたので、ひたすら公園に連れて行きました。そして、夕方には体力が枯渇状態。私の事情を知っている、近所のママ友たちに助けられながらの子育てでした。この頃のお世話になったママ友たちには今でも心から感謝しています。水中出産息子が幼稚園に入り、少しずつ体力がついてきたこの頃、二人目の子を授かりました。そしてこの時にたまたま知り合った音楽教室の先生が自宅で水中出産をされていて、「赤ちゃんを自分で取り上げると楽しいよ。」とおっしゃいました。そんなこと可能なの?驚きましたが、更に話を聴き、勉強して、助産院の先生にも協力とご指導をいただき、水中出産をすることにしました。準備万端、また、楽しい胎教lifeを過ごしたのちに、助産院のお風呂で、先生には別室で常に待機していただきながら、無事、自分だけで水中出産、男の子でした。胎教と水中出産、本当に楽しかったです。子供が二人になったのと同時に、前よりまた少し元気になってきたので、とにかく仕事を始めようと思いました。その頃から、だんだん自律神経失調症という言葉があちこちで聞かれるようになり、自分に合わない仕事のストレスで、体が壊れたんだ、と気づきました。じゃあ、私に合う仕事、て何?やっぱり音楽に関わる仕事がしたい。でも音楽に関して、約10年のブランクがあって、アパートには電子ピアノしかなくて、どうしよう...ピアノ教室うーん...と悩んでいたら、新聞に、『リトミックの先生になりませんか?』と1行だけの広告。これだ!と思いました。 かつては、中学の音楽講師として、各学年10クラスあるマンモス中学校で、2年間で、約500人の生徒を受け持っていたのだ。ならばちびっこ10人や20人は大丈夫!しかし、勉強を始めてみると、うさぎさんやくまさん、お猿さんに変身...ごっこ遊び、歌のお姉さん。この時、体力だけでなく、人生経験の引き出しがないことに気付きました。また、歌いながらピアノを弾くのは当たり前で、動くイメージに合わせて、ピアノの即興演奏が必須。でもちょっと前まで、普通の音量の音や、音楽すら、ストレスとなって、体がおかしくなってしまうので、長らく弾いていなかったピアノ。ブランクの影響は、かなりのものでした。でも、もうそんなことは言っていられません。とにかくリトミックを体で覚えなくては、と、ひたすらピアノを練習し、ステップを踏みました。初めての生徒 ピアノがもれ聞こえていたのか、リトミックを勉強し始めてから2年後近所のお子さんがピアノを習いたい、と言ってくれました。それならば、と、近所の幼稚園の前でチラシを撒くと、生徒さんは年中から小学4年まで7人集まり、狭いアパートで『音楽教室 虹の歌』が始まりました。音楽教室虹の歌長い年月と人生をかけて、ピアノとリトミックの音楽教室に漕ぎ着けましたが、こうなると次の目標は、広い教室と、グランドピアノです。アパートからは出たい、とずっと思っていたので、寝たきりの頃も、不動産屋のチェックは怠りませんでした。そしてこの頃に、ようやく夕日が綺麗に見える土地が見つかり、家を建てることになりました。間取りは全部自分で書き、リトミックができる広い教室が完成、学生時代に使っていたグランドピアノも引っ越し完了。そしてついに、この年のクリスマス前日に、うちの教室で第1回発表会を開催しました。(出演者・リトミック4人、ピアノ9人、リコーダー1人)研鑽の日々音楽教室虹の歌は、ピアノ、リトミック、声楽の教室です。いろいろあって、教室としてはまだ日が浅いので、なおさら、みんなにピアノが上手になってもらいたい、リトミックを楽しんでもらいたい、素敵な歌を届けたい、と切望していました。それには、もっと自分がレベルアップするんだ! そしてピアノとリトミックと歌は、それぞれ、素晴らしい先生の元で勉強できることになりました。生徒のための指導法や、さらに音楽の学術的なものなど、とにかく虹の歌に来てくださる生徒さんにとって、また、自分が向上できると思う場所に飛び込んで行きました。特訓開始!!おかげさまで、またいろんな引き出しが増えました。幾つになっても成長できると確信しました。いくつかの勉強会に参加して、私は一つ決めました。自分で楽譜を読める生徒を育てようと。楽譜が読めて、ピアノが弾けたら、音楽を楽しむには最強!そしてさらに、他の楽器や歌を歌おうと思ったとき、とても自信を持ってチャレンジできるようになるから。ピアノを弾けるようにするには、本人の毎日の練習はもちろんですが、親御さんが毎日の練習に付き合って、ピアノの宿題を、ちゃんと弾けるように手助けをしてあげてください。お子さんが早く上達するには絶対この方が良いです。でも、ピアノをお子さんに習わせたいけれど、そこまで親御さんが関われないお家もあるはず。また、親御さんが家で全部教えてくれるから、すぐに上手に弾けるようになるけれど、気が付かないうちに、自分で楽譜を読まなくなってしまって、一人では新しい曲はチャレンジできなくなることもある。また、親子で頑張ってきたけど、ある程度のレベルまで来ると、親御さんの手に負えなくなって、ついに「自分でできるでしょ!」と言ってしまう。すると子供は「無理!」と言ってやめてしまうということも...無きにしも非ず。最初から自分で読むものだ、という考え方でレッスンに来ている生徒さんは、できないことを親御さんのせいにすることも無く、課題は自分でやってきます。ただ、親御さんの助けがなく、一人で練習だと、習得に時間がかかることが多いです。もちろん個人差はありますが。でもその結果、生活の中で音楽好きが滲み出る子が多いようで、アンケートで、何人もの親御さんが、お子さんが以前よりも音楽が好きになったと、書いてくださっています。学校の音楽で習っている曲を弾いてくれたり、持っているテキストの、まだ教室では取り掛かっていない曲を何曲も家で弾いていて、レッスン中に「この曲も弾いてきたよ。」と新曲を披露してくれたり、友達とグループを組んで弾いたり、と音楽的に独立の一歩を踏み出している生徒さんが増えてきました。学校の音楽の試験で困る生徒さんも少ないようです。中学で常に成績トップ、または上位にいる生徒さんも多いです。最初のレッスンの前に、どういうレッスンを希望されるのか、たくさんお話を伺えると良いレッスンが進められると思います。自慢の生徒さんゲームの洞窟迷路のテーマ曲。「僕はこれしか練習しない。」◇男くんが言いました。他のテキストはそっちのけで、ひたすら3連符が続き、その後も怪しくて軽快な曲。「トマト.トマト............クリームトマト.クリームトマト...」とリズムの言葉を唱えながら、ずっと戦いを挑むように、弾いていました。3ヶ月ほど弾きつずけたある日突然、「もうこの曲はいい」と言って、メロディックな曲に方向転換。するとなぜかものすごくあま〜い雰囲気で弾くようになりました。この時彼は小学4年。6年生の時の発表会ではジャズのテイクファイブを弾きましたが、ステージに立った彼の雰囲気と奏でる音楽は、とても小学生とは思えないくらい、素敵なものでした。彼はこれで虹の歌を卒業。余談ですが、中学では3年間トップの成績だったそうです。◯美ちゃんは、2歳からリトミックに通い始め、年少になった時、年少、年中、年長、小学1年で男女5人一緒のリトミッククラスでした。一番年下の◯美ちゃんは、このメンバーでついていくのはなかなか大変でしたが、クラスのみんなに鍛えられてるなあ、と思って見てました。すると3年経った彼女はすごかった。小学1年でピアノコースに移った時、彼女の愛読書は国語辞典、付箋がいっぱいついていました。右手と左手の調を、わざと1音ずらして曲を弾いたり、いろいろチャレンジしてきます。譜読みは早く、どんどん曲をこなしていきます。小学6年の時の発表会で、ベートーベンの悲愴第1楽章を弾いた時のこと。ステージのピアノの椅子に腰掛けた時、しばらく上の方を見つめて止まってました。その後、みんなが感激するほど上手に弾けてました。弾き終わってから、彼女が興奮して、「先生、聞いて!」ステージでピアノの椅子に座った時、天井の辺りがピカーっと光ったので、なんだろうと思って見ていたら、彼女が大好きな「のだめカンタービレ」の着ぐるみのマングースがピアノまで降りてきたそうです。彼女は、ピアノの神様が来てくれたんだと思い、その感動を音に込めて弾いたそうです。教室の外での私の活動について。歌の活動は、コロナで今は止まっていることが多いので残念ですが、40歳になった頃から、結婚式で、ソリストやクワイヤーとして歌わせていただきました。また、息子たちがお世話になった、一宮市大和中学校や、小牧市のいくつかの中学校で、合唱の特別指導者としても約10年間、特別授業をさせていただきました。。地元の合唱団のボイストレーナーもさせていただきました。今は、更に表現を勉強するためにオペラと指揮を勉強をしています。49歳の時、息子たちがお世話になった幼稚園の園長先生がピアノレッスンにきてくださっていたことから、地域の幼稚園の先生250人位の夏期講習会で、リトミックのワークショップをさせていただいたことがあります。また、北名古屋市の子育て支援関係の課から、毎年2回、出張リトミックの依頼をいただいております。みんな違ってみんないい調子を崩してわかったことがあります。まず以前だったら、何だって頑張ればできる、と思っていました。でも、体に底力がなくて、頑張ることもできない人がいる、ということがわかりました。自分がこうなって初めて、『みんな違ってみんないい、』という金子みすゞさんの言葉が腑に落ちました。それと、日頃の小さな目標は、表向きは100%を目指すけれど、80%くらいで良し、と思うと、うまく行く気がします。体を壊したこたは大変だったけれど、全ては、私がこのことを学ぶために起こったことなんだ、と感じています。 将来自分で好きな曲が自在に弾けるように苦戦していた生徒が弾けるように、弾けるようになるイメージやテクニック、練習の仕方をその子に合わせて伝えています。弾けるようになるために生徒と一緒に試行錯誤をするのが好きです。弾けなかった生徒がどんどん弾けるようになる、そんなお手伝いをこれからもどんどんしていきたいです。[通ってこられる生徒さんの学校区、地域 ] 保育園、幼稚園:一宮聖光幼稚園、研修南保育園、サンタマリア幼稚園、 中田剱正幼稚園、丹陽幼稚園大和東保育園、大和東幼稚園、 龍明寺幼稚園、他小学校:大和東、大和西、大和南、丹陽、丹陽西、大志、向山、末広、萩原、葉栗、西成、貴船、小信中島、他中学校:大和、大和南、南部、中部、北部、丹陽、他高校:一宮、一宮西、興道、西春、地域:一宮市、稲沢市、岩倉市、江南市、岐阜市、
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