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●プロフィール大学卒業後、奈良県警察官を拝命、警察学校卒業後派出所で勤務、その後、市役所職員に転職、現在、現職の市役所の職員として市民サービスの向上に日々奮闘しながらコーチ、キャリアコンサルタントの資格を活かして主として地方公務員のサポート(地方公務員以外の方も大歓迎です。)をしています。(当然無料です。)サポートしたい方はこんな方です。 ↓↓↓↓↓↓↓「転職したい、起業したいが踏み出せなくて悩んでいる方」「新しいことをはじめたいが一歩踏み出せずに悩んでいる方」「仕事に活かそうと新しい知識やスキルを学んで成長したいがどういった分野にチャレンジすればいいかわからなくて悩んでいる方」「定年まで地方公務員を続けるイメージを持てないが何をすればいいか見つからずに悩んでいる方」「やりたいことを活かして現実を変えたいが何をすればいいかわからなくて悩んでいる方」「夢はあるが実現するためのプロセスがわからずに悩んでいる方」「現状に対する不満、未来に対する漠然とした不安を感じながらも前に進めずに悩んでいる方」「自分が本当にやりたいことを見つけたい方」「5年後、10年後の「ありたい自分」を見つけたい方」●「一誠」のものがたり・平成のはじまりとともに警察官、澤村一誠は産声を上げました。大学時代から漠然と地元奈良に貢献したい、奈良で働きたいと考えていました。高校(奈良県立高田高等学校)、大学(関西大学)と柔道をやっていたこと、会社で仕事をする自分自身のイメージが湧かなかったこと、刑事に対する憧れもあって大学卒業後、警察官になりました。今から考えると安易でした。・そして鬼のような8か月の全寮制の警察学校の生活を経て、警察官としてスタートを切りました。(この鬼のような警察学校の生活はメルマガで配信中です。)、警察学校卒業後約2年間派出所の警察官でした。・退職したのは平成3年の12月22日です。退職後「なぜ辞めたの?」とよく聞かれました。説明するのが面倒で「飲酒して車を運転して人を轢いたから」と答えていました。← 本当ではありません。本当の理由は、定年退職まで人を逮捕する、捕まえる仕事を続けることに耐えられなかったからです。それが仕事なのですが、就職するときに自分の適性などをよく考えなかったんでしょうね。・そして私の人生のターニングポイントになった平成3年7月1日(月)とても暑い日だったと記憶しています。この日は当直勤務(朝から翌日の朝までの勤務)でした。自宅を出たもののどうしても仕事に行く気にならず、出勤途中に公衆電話から(当時は携帯電話はありませんでした。)当時、勤務していた警察署に電話し、担当係長につないでもらい「渡辺係長、澤村です。母方の祖母の具合が悪くなり四日市の病院に急遽行かなければならなくなりました。申し訳ありませんが今日の当直休ませてください。」とうその理由を言って休みをもらいました。そして、1日あちこちドライブして18時頃、日勤(朝から夕方までの勤務)の振りをして何食わぬ顔で帰宅したところ母が心配そうな顔をして「警察署の渡辺係長から電話があり、『四日市に行くなら管外(奈良県警の管轄区域外という意味です。)になるから管外旅行願いが必要になるので提出するように』との連絡があったよ、どういうこと?」と私に声を掛けました。【当時の母との会話や風景は鮮明に覚えています。時間が止まったような感覚でした。】"あっ、そうやった。管外に出るには届が必要やった。しまった。”(私の心の声です。)、当然母には仕事に行くと出かけたわけですから噛み合いません。(この間、警察署では私が虚偽の申告をして休んでおり、連絡が取れない状態になっていたため大騒ぎになったそうです。)当時の関係者の方すみません。((+_+))・もう逃げも隠れもできません。母には正直に「仕事が嫌で今日、うその連絡して休んだんや。」と正直打ち明け、警察署に出向きました。そして腹を括って「警察官として仕事をするのが嫌になりました。今日の虚偽の申告の件もありますので今日を限りに辞めさせてください。」【当時は、この日のみ休んで翌日の7月2日からは仕事に行く気でした。また、奈良県内のどこかの病院と申告をしていたら虚偽の申告がばれなかったでしょう。運命のいたずらとはこのことです。】・上司からは強く慰留されました。退職の決意は固かったのですが中途半端な時期での退職は迷惑をかけることになるためとりあえず即日の退職は思い留まりました。そして平成3年末の12月22日をもって奈良県警察官を退職しました。実は、当時つきあっていた今の嫁さんにはプロポーズをしており本人にもご両親にも承諾を得ていました。結婚式も翌、平成4年2月8日と決まっていました。そんな状況での退職ですから無謀と言えば無謀、よく嫁さんもご両親も結婚をさせてくれたと思います。感謝です。ちなみに結婚した当時、嫁さんは大学4年生で4月からは就職が決まっていました。4月からは嫁さんが世帯を支える大黒柱でした。私は嫁さんの被扶養者として月10,000円の小遣いをもらいながら県の職員採用試験の合格をめざして勉強漬けの日々でした。会社で働く自分がイメージできなくて警察官になり、合わなくて退職したのですが、次の仕事を決めるにあたっても会社で働く自分がイメージできず福祉や都市計画など様々なことができる一般職の公務員になろう決意しました。・そして平成4年6月、嫁さんの妊娠、とても嬉しかったですが正直、「えらいことになった。早く仕事を決めなければ。とにかく頑張るしかない。」という心境でした。7月、第一希望の県職員の試験を受験したものの不合格となり途方に暮れました。嫁さんの妊娠もあり就職する以外の選択肢はなくイメージできなかった会社も含めて転職活動を開始しました。・当時は今ほど転職が一般的ではなく、また警察官を退職したことに良いイメージがなかったのか転職活動も上手くいかず藁にも縋る思いで高校時代お世話になった先生に相談しました。・相談したのが8月頃だったと記憶しています。先生から「ちょうど私(先生のことです。)の住んでいる市の市役所の試験が9月にあるから受けてみたらどうかな」その市は、行ったこともありませんがごちゃごちゃ言っている場合ではありません。その日のうちに市役所まで出向き願書を受け取り必要事項を記載し数日後に提出しました。・受験当日、ゾーンに入ったとでも言うのかも知れません。第一希望の県の職員採用試験とは範囲も形態も異なったもののほぼ完璧な出来でした。そして予想どおりの合格通知を手にしました。・次は面接試験です。面接試験ではもともと志望していなかったそして行ったこともない市役所の志望動機と警察官を退職した理由を聞かれるのは間違いなく、説得力のある説明が必要になります。退職理由について、虚偽の申告をして仕事を休んでいずらくなったとは言えませんし、志望理由について、第一希望の県の職員に不合格になって行くところがなくてタイミングがあったからとは口が裂けても言えません。(ちなみに私が受験した市役所は、私とは縁もゆかりもありません。私の出身地の奈良県にもありません。)合格するために、もっともらしい理由を考える必要があります。面接当日の質問と答えを脳みそが捻れるぐらいに考えてシュミレーションし本番に望みました。面接官:「どうして前職の警察官を辞めたのですか。」 私 :「地元の奈良が大好きで奈良で働きたいと考えて警察官になりました。警察官の仕事も様々ですが、主要な仕事は、悪事を働いた人を逮捕すること、悪い人を捕まえるのが仕事です。そのような仕事はやりがいもあり尊いのですが、定年までそういった仕事が続くとなると正直なところモチベーションが続くのかと感じるようになりました。私自身が未熟だったのでしょう。プライベートでも、『この人はを悪事を働いた人ではないか、なにか悪いことをしたのではないか。』といった先入観で人を見てしまう自分が嫌になったことが退職した理由のひとつです。そして、今の話とも関連しますが、同じ公務員でももっと様々な仕事、例えば都市計画であったり福祉部門の仕事であったり、環境部門の仕事などに携わりたい、様々な視点でまちづくりに関わりたいと思ったことが退職した理由のふたつめです。」←【この2つの理由は本心でもありました。】面接官:「そんなことは、就職するときからわかっていたことではないのですか。」 私 :「確かに今から振り返ってみればそうだと思います。ご指摘のとおりだと思います。そのあたりは十分に考えませんでした。奈良で働きたいという理由で安易に仕事を決めたのは私自身反省しています。しかしながら中途半端なモチベーションのまま仕事を続けることは、県民の方への背信行為だと思いましたので退職を決意しました。」面接官:「それでは次の質問です。あなたはどうして、当市を志望されたのですか。お住いも奈良県ですし大学等も当市ではないですね。」 私: 「多くの市役所のなかで貴市を志望するのはまず、大阪東部地域の中心都市であって今後ますます発展が見込まれること。仕事をするなら活気のある賑わいのある貴市のようなところで自分の力を試してみたいと考えました。大阪市のベッドタウンでありながらも豊かな自然が残るまちでもあります。そのような自然と調和した貴市の良さを発信し、住みやすさをアピールし人を呼び込みたいと考えています。」面接官:「あなたは、奈良がお好きで奈良で働きたいとおっしゃっていましたが、整合性が取れていないのではないでしょうか。どのようにお考えですか?」 私 :「私が奈良が好きな理由の一つは豊かな自然があることでもあります。先ほど申し上げたとり貴市には豊かな自然があり愛着を感じます。奈良で働きたいという思いはありますが、それは貴市と同じように魅力のある自治体であればという前提条件つきです。現時点で貴市と比較して強く働きたいと私が感じる魅力的な自治体は奈良県内にはありません。そういった理由から貴市を志望しました。」我ながら渾身の面接だったと思います。火事場の馬鹿力とでも言いましょうか、本当に脳みそが捻れるくらい考え、シュミレーションした甲斐がありました。・11月、待望の合格通知、大丈夫とは思っていましたが嬉しいというよりホッとした感情の方が強かったです。率直に、“嫁さんとこどもが養える。”と思いました。・平成5年4月晴れて市役所の辞令交付式、もう失敗は許されないと決意を新たに身が引き締まったことを覚えています。ちなみにこの前月の3月に長女が誕生していました。4月2日の新規採用職員向けの必要書類のガイダンスでは、担当者の方から「この4月から扶養に取られる方がおられる職員は挙手してください。」恥ずかしかったですが迷わず挙手しました。当然、私ひとりでした。後日お聞きするとこれまで2人目とのことでした。今でこそ珍しくないですが当時は貴重な存在でした。・採用時研修が2週間あまり、そして4月16日配属辞令の交付式では財政課勤務を命じられました。庁内で最も激務と言われている所属でした。国で言えば財務省です。配属のこの日から10月中旬までほぼ毎日22時退庁でした。・仕事の内容は、翌年度の予算編成、前年度の決算分析、交付税算定、起債(地方債)の借入れなどなど。仕事をするためのマニュアルもない。先輩職員に聞いても、「前年度の資料を見てやれ」との指示、夜遅くまでひとりで残業したこともしばしば。在籍していた4年間で地方公務員としての基礎を叩き込まれました。厳しく育てていただいたので感謝している部分もありますが今ならパワハラですね。本当にしんどかったです。当然辞める選択肢はもうありません。やるしかないという心境でした。最も苦しい時期は12月頃から年を越した2月頃までの予算編成のピークです。遅い時は午前1時、2時頃まで仕事をして近くのホテルで宿泊するか机で仮眠したことも。徹夜したことも何度かあり嫁さんに下着などの着替えを職場に持ってきてもらったこともあります。帰宅して自分の家の布団で寝るのは嬉しかったです。帰宅して嫁さんと生まれて間もない長女の顔を見るのが唯一の楽しみでした。ごくまれに早く帰宅して長女と一緒にお風呂に入ろうとしたら泣かれたという笑えない話もあります。当時同居していた弟の事を父親だと思っていたようです。今だから言えますが当時は、情けなくてやり切れなかったですね。こんな生活が平成9年3月末まで続きました。ちなみに平成7年9月7日には長男が誕生しており責任が重くなり一層辞めれなくなっていました。・平成9年4月1日、定期人事異動で2つめの所属を経験することになりました。“やったー予算編成から解放される。あの激務から解放される。赤飯を炊こう。”という心境でした。しかしながら世間はそんなに甘くはありません。異動先は庁内でも2番目に激務と言われているところで、ほぼ毎日22時まで仕事という生活ではなくなりましたが土曜日、日曜日の休日出勤が増えました。仕事の内容は、市全体の計画策定、庁内調整、市政運営方針の策定など。年間の休日の半分程度から6割程度出勤していたと記憶しています。こんな生活が平成12年3月まで続きました。また、在籍中の平成9年12月26日には二女が誕生しました。平成5年4月以降、心も身体も酷使していましたね。メンタル的にもかなり不安定だったと思います。・平成12年4月1日、2度目の定期人事異動で3つめの所属を経験することになりました。仕事は、民間の保育園への運営費と補助金の支出といった内容でこれまでの所属とは大きく変わりました。慣れない仕事で異動当初は苦労しましたが新規採用職員として配置された職場や2度目の職場と比較して時間的に少しだけ余裕が出来ました。厳しい市民の方との対応や社会福祉法人の理事長さんや保育園の園長先生との喧々諤々の議論をしたのは貴重な経験でした。・平成15年4月1日、3度目の人事異動、4つめの中小企業を振興する所属に配属になりました。ここでは市内の民間企業(主として中小企業)を振興するための施策を担当し、展示会や産業博覧会を開催し、人材確保などについても少しでも中小企業のお役に立てればと社長さんと熱い議論を交わしながら進めました。市内の中小企業の収益向上を目的に全国のメーカーに市内にお越しいただき商談会を開催するといった仕事も担当しており、参加を促すため京都や姫路、遠くは長野県や富山県へ出張したこともありました。この所属には平成22年3月まで在籍しましたが、平成17年4月には係長に昇格、平成20年には自治大学校に入校させていただくという機会にも恵まれました。自治大学校は東京都立川市にあり都道府県、市町村から派遣されてくる全国の自治体職員と地方自治法や政策決定のあり方などについて寮生活を送りながら研修を受ける総務省の付属機関です。2ヶ月という長期にわたって寝食を共にしながら学んだ全国の仲間とは今でも交流があり私の財産になっています。また、平成21年4月には管理職である課長補佐に昇格し市議会に初めて出席するという経験もしました。・平成22年4月1日、4度目の人事異動で人事課に配属になりました。平成22年度、23年度は課長補佐として平成24年度から27年度までは課長として在籍しましたが市役所の職員として最もディープで濃密な6年間でした。職員採用試験の面接、昇任昇格、懲戒処分、全庁的な労務管理等々それまで人事行政は全く経験したことがなく冷や汗を流したことも数知れませんが、スタッフにも恵まれて何とか課長職を務めることが出来ました。また、大好きな先輩職員が志半ばに退職されるといったこともありました。体調不良による退職でしたが人事課長として何かできなかったのかと今でも後悔の念でいっぱいです。他にも超過勤務やメンタル疾患の問題など語り尽せませんので改めてお伝えします。・平成28年4月~・中核市への移行期に移行担当として2年間、そして移行してからも市役所の職員として誇りとプライドを持って仕事をしています。●コーチングとの関わり・平成22年課長補佐になったのを契機に、良好なコミュニケーションの必要性を認識し、体系的にコーチングを習得しようと決意、「認める」、「聴く」、「質問する」といったコーチングのスキルが、職場での人材育成や組織の活性化に役立つことを痛感しました。・もっともっとコーチングを深めたい、コーチングの素晴らしさを伝えたいと奮起し認定試験受験を決意、平成23年銀座コーチングスクール認定コーチとなりました。同時に、取得した認定コーチの資格をどのように活用すべきか思い描くことができずクライアントとしてコーチングを受けました。コーチから質問され、その質問に答える中で頭の中が整理され、そして漠然とした思いが、くっきりと、そしてはっきりと思い描く夢となり、その夢を実現するためのプロセスも明確になっていきました。・そして今、思い描いた夢が達成すべき目標となり、その目標も現実のものとなりつつあることを実感しています。
テーマ: コミュニケーション
地域・地方自治体
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