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お歌のおねぇさん(おばちゃんw)/英会話講師のさくらいかおるです。レッスンでは、マイアミにいた当時、Kaの発音できないアメリカ人にたまに呼ばれていたニックネーム"Kate"でやらせてもらっています。プロフィールの写真はかなり差ば読んでます!すみません!宣材写真でしっかりとったのこれぐらいで。。。かなり気に入っております。お許しください!w スタイリストや弾き語りをしていた、独身の頃からのブログのまま続けております。私事の人生ですが、やりたいことだけをやってきた我が人生(もちろん大学までは親のサポートありきで)、40歳の節目でもあるので振り返りながら綴らせてもらいます。横浜に生まれ、交換留学生を受け入れていた祖父や英語教室を自宅で営んでいた母の影響もあり英語を身近に感じて育ちました。初めて外国人相手に英語を話したのは、中学2年生で初のNYへの海外旅行の時。母に英文を教わり英語が通じたことを今でも鮮明に覚えています。私立の中学に通っていた私は、いわゆる問題児でして(;^ω^)、コギャル、ルーズソックス、ポケベル、バイカー、チーマーなどが流行りだした頃、4つ上の兄の影響もあり、時代の流れにノリノリでひたすらVIVIのアンナにFineのヒトミを目指していたっけな。w 私立の女子校がそんな風紀が乱れてる生徒を野放しにしていることはなく中学退学→またまた高校受験。都内の私立高校に入学するも、公立からの子達と全く共通点を見つけられなく2日で行かなくなりました。本当に親に迷惑ばかりかけておりました。そんな時でも母は、留年して高校行くか?夜間に行くか?16歳になるまで待って働くか?ハワイに留学するか?と選択肢をくれました。無我夢中だった私はワイハ悪くないっ、南の島サイコーじゃん!と二つ返事でハワイ行く~と決めました。毎日友達といた日々が楽しすぎて、なかなか学生ビザがとれないことも喜んでいる中、4回目の申請で学生ビザを取得し、いざハワイへ! 空港で友達に見送られ、皆で号泣しながら1人飛び立ちました。15歳の夏でした。その頃の私はまさに尾崎豊の「15の夜~」と、バイクは盗んではいないものの「卒業」ばりに大人は皆敵でした。でも結局は私立のお嬢さんじゃない!ってとこがなんか尾崎豊と被るんだけど。それはいいとして。。。そんな勘違い女だった私はハワイに行っても、劣らず問題児で、英語も喋れないのにローカルと喧嘩したり、カトリックの寮の5時半の門限を無視したりして、ハワイでの保護者にも引き続き全開で迷惑をかけておりました。英語わからないのによくやったわ、と今では褒めて差し上げたい!wそんな私は、ハワイに引っ越したことで180度変わっていきます。まず、授業中の居眠りに周りの子達がみんなで起こしてくる、それだけでなく「昨日の夜何してたの?」とか聞いてくる。金髪、ネイル、メイク、アクセじゃらじゃらなのに親や先生の言うことはちゃんと聞いて、課題課題の毎日をこなしている。みんな親や先生、大人をしっかりリスペクトしている事にカルチャーショックを受け、恥ずかしくも感じ、おかぁ~さんって母が恋しくなってホームシックにもなってました。私立のカトリック高校だったことも少しは関係あるのかもしれませんが、日本にいたら完全に見た目で「不良」といわれる子達がすごく「素直ないい子」でした。先生や学校の成績システムも新鮮で、日本の中学で勉強が中の下だった私なのに、アメリカの勉強が日本より遅れていることもあり、数学の時間では英語もわからないのに「天才!寝てていい!」と言われてました。とにかくみんなを褒める先生方。そして先生方がみんな本当に優しかった。元々絵を描くのが好きだった私はアートの先生に出会い、またまた人生大きく変わっていきます。一生懸命やっていたらみんな5!っていう先生に背中を押され、自分の絵をコンテストに出し、賞をもらったり、アート3までしかなかったクラスも校長先生直々アート4を私のために作ってくれて、卒業式では「Hornable Mention in Art」といって"優秀"wな生徒だけに贈られる賞をもらい、親も私自身も卒業式でいきなり名前を呼ばれ、びっくりな出来事でした。高校のカウンセラーの先生も真剣に将来について話し合ってくれて、アートが得意で語学もできるのだから、そこから考えてみたら?と提案してもらい、洋服が好きだったので、ファッションデザイナーになる!と目標まで持ち、晴れて無事高校卒業しました。お母さん諦めずにいてくれて本当にありがとう!NYのファッションインスティテュート(FIT)にも行けることが決まりつつも、ハワイのローカル化していた私にはまぁ速いNY。住むことを考えただけでも、やっぱ無理!と、ファッションやるならNYでしょ!とならず、心から尊敬し崇拝していた「ベルサーチ」&「ボブ マレー」wが息を引き取ったマイアミに下見もせずに引っ越すことを決意。本当にアホっぽいけど、本気も本気でした。この時の母も、私を信じて応援してくれていました。そして、マイアミの美術大学でファッションデザインを専攻。そこでも、素晴らしいパターナーの先生と出会いました。そして、自分で作った服を持ってうろついていた時、服を見てくれて、アシスタントにならないか?と声をかけてくれたスタイリストの師匠。素敵な大人との出会いに出会いを重ね、卒業するころには、大御所スタイリストのアシスタント経験がある、パターンも縫いも得意なアジアの子になっていて、大学卒業後はオートクチュールデザイナーの下でアシスタントデザイナーをパートに、フリーでスタイリスト、兼コスチュームデザイナーとして仕事をもらえるようになっていました。縁はすごく不思議なもので、高校のバインダーに切抜きを挟んでいた、グラミー賞受賞の女性アーティストからも個人的に仕事をもらうようになっていました。私が音楽を通して英語を話せるきっかけにもなった、憧れの女性の1人です。後、2005年日本帰国。フリーのスタイリスト兼コスチュームデザイナーとして約10年間お仕事をいただきました。スタイリストとしてドカンと売れることもなくですが、マネージャーが付き、定期的にお仕事はしてきました。その間、大学時代から趣味でやっていた弾き語りライブはずっとやっていて、不思議な縁でロックのルーツといわれる伝説の野音(日比谷公会堂)で、イルカさんのオープニングをやる機会もいただきました。スタイリストとして忙しくなるまでGABAマンツーマン英会話や企業での英会話講師、通訳、乳幼児音楽講師、恵比寿にあるバンタンデザイン研究所でスタイリスト科の英会話講師、西麻布権八でのメイトロディ、九段下マダム英会話サークルなどなど英会話を使ってできることを「やります!できます!がんばります!」と都内を飛び回り、いつでもスタイリングの仕事が優先できる状態でスタンバってる時期も長かったです。実力よりも誰が師匠か?を気にする日本の業界では通用する門がかなり狭いのは事実でした。代わりがいくらでもいる世界で、母親になってからも、終わりの時間が決まっていないケツナシの仕事をやり続ける気力がなかったので、未練なし!と、私なりに完走した感が大きかったです。長々と私の人生をストーリー仕立てに書いてきましたが、良い大人、素晴らしい先生との出会いに本当に恵まれてきました。人との出会いは本当に奇跡で財産です。たくさんの学びに成長があった今でも、まだまだ日々成長だなと感じています。夢を持つことよりも、成功することよりも、愛を持ったいい人達に囲まれ、日々幸せを感じている人に我が子にはなってもらいたいと願う今日この頃です。講師を長年続けてきて、老若男女、下は0歳から最高年齢85歳までの素敵な方々に先生として関わってこれたことに感謝するとともに、とても誇りに思います。私の方が常に学ぶ事が多いのです。私自身が誰かの何かにプラスの影響を与えられたら本当に嬉しく思います。今日の私が私でいる全ての要素になってくれた素敵な人達のように。。。そんな気持ちを基盤に、今の英語リトミックや児童英会話講師の仕事は私の集大成であり、大好きな仕事です。皆がいるからこそ成り立っているのです。キラキラな子供達と笑顔が素敵なママ達に出会える私は幸せ者です。まだ出会っていない、この長い文章読んでくださった貴方にも。心からありがとう!いつがどこかでお会いできたら素敵ですね。
テーマ: 【ライムタイム ニュース】
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