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幼少の頃は引っ込み思案で泣き虫、よく母や2歳年下の活発な妹の後ろに隠れて、挨拶もなかなかできない子でした。挨拶しなかったと怒られては泣き、泣いたと怒られては泣き、いつもメソメソ泣いている子でした。幼稚園でもすぐ泣くのが面白いのか、よくいじられていました。その事をかなり大人になるまで、いじめられていたと思っていました。幼稚園時代はいつも泣いていて、悲しかった思い出が多いです。ピアノは、4歳から募集されるヤマハ音楽教室に、3歳10か月で入れられました。音楽教室は5月から開講するので、7月生まれの私を、あと2か月だからと父がサバ読んで入れたようです。両親は本人がやりたいと希望したからと言っていましたが、私には3歳の頃の記憶はありません。初めの頃は電気オルガンで練習していた記憶があります。音感は良かったようで、付き添って教室に来ていた母が、他の方とおしゃべりしていても、聴いた音をちゃんと5線の上にマグネットの音符を置いていて、ほとんど間違えたことが無かったと言っていました。後に妹も音楽教室に通うのですが、妹は好き勝手な所にマグネットを置くので、目が離せないと話していました。活発な妹は座ってピアノを弾くより、音楽が鳴ると体を動かしてクルクル回ったり踊ったりする方が好きな子供で、後にじっと座ってピアノの練習をさせられるのがとても苦痛だったと言っていました。姉の私は引っ込み思案で泣き虫のくせに、「独立心が強く何でも自分でやると言って、段違いにボタンを留めたり、縦結びにリボンを結んだりして着ています」と、幼稚園の連絡帳に書かれていました。小学校に入っても、やはり低学年のうちは引っ込み思案の泣き虫で、成績も中位の目立たない子でした。1年生の時、担任ではない先生の授業で、隣の席の男子に画鋲を刺す真似を何度もされて1時間中泣いていた事がありました。給食の時に担任の先生にその事を怒られて泣き、立たされて泣き、また泣いたと怒られては泣き、座って給食を食べるよう言われては泣き、というふうに泣き倒していました。引っ込み思案で先生に泣いた原因を言えず、その代わりに泣いていた気がします。自分の意見を言ったり、ましてや人に言い返したりするのはとっても苦手でした。そのころは私がしょっちゅういじられて泣いているのを見兼ねた姉御肌の友人が、いつも守ってくれていました。3年生の時の女性の担任の先生と4年生の時の男性の担任の先生になぜか可愛がられ、何かと発言の機会を与えて頂いたり、前に立つ機会を設けて下さり、引っ込み思案の自分としては、多きにストレスを感じながらも何とかこなしていくうちに、少しずつ発言できるようになり、あまり泣かなくなっていきました。それにつれて成績も少しずつ上がっていきました。いろいろな人と友達になってたくさんの経験をして、段々覚醒してきた感じです。その頃は団地に住んでいて、夏休みに近所の子供達と毎日のようにリレーごっこをして遊んでいました。二学期が始まった時に急に足が早くなっていて、驚いた記憶が有ります。高学年の頃には、選抜の運動会(連合運動会)や、学校対抗のポートボール大会(今で言うミニバスケット)・ソフトボール大会に選手として出たり、 音楽会の伴奏等もしていました。足が早かったりピアノが弾ける事が自信に繋がってきた頃でした。6年生の時に担任してくれた女性の先生が、生徒を生き生きとさせる名教師だったので、前を向いて積極的に物事に取り組めるようにして頂きました。その先生とは今でも年賀状のやり取りをさせていただいています。ピアノは、音楽教室を終了し、そのままその先生に個人レッスンを受けていました。1年生になった時に、両親がアップライトピアノを買ってくれました。父は独学でピアノを弾く人でしたが、母は全く音楽が解らない人でしたので、父の言いつけに従って私に練習させる時に、1曲10回ずつ弾くように決めて、隣に座って回数を数えていました。当時はスパルタ教育が流行っていて、何度も間違えると怒られたり叩かれたりしました。私はそれが嫌で、「トイレに行きたい」や「水が飲みたい」などと口実を設けてはその場を離れる事を考えていました。トイレに行って中から鍵をかけて寝てしまった時は、散々怒られておやつをもらえませんでした。学校帰りに友達と遊ぶ約束をしても、練習しないと遊びに行かせてもらえないので、待っててもらう間にみんなどこかに行ってしまって、寂しい思いをしたりしていました。この頃のことを思うと、よくピアノを辞めたいと言わなかったなぁと、自分でも思います。ピアノ、大好きなんですね!。宿題の曲を練習して弾けるようになると、母が次々と先を練習させるので、2年生になる頃にはバイエルが終わり、苦労しながらエリーゼのために等弾いていました。その後、先生が幼稚園会場をお辞めになったのを機に、近所のピアノ教室に移りました。男性の先生で、本職が作曲家でしたので、曲の成り立ちや背景の話をしてくださるので、先生の話を聞くのが大好きでした。その先生から、「音楽に向いていそうだから、長く続けなさい。きっと良い事があるよ」と言われて自分で進んで練習する様になりました。先生が留学されることになり、教室を閉められたので、4年生の中頃にヴァイオリンとピアノを教えている先生の所に通うようになりました。大変厳しい先生で、上手く弾けないと怒鳴られたり、楽譜を投げられたりした事もありました。先生がこわくてせっせと練習していくので、よく指が動くようになり、「ピアノが向いているので、音大に入れてはどうか」と先生から両親に提案されていました。私が6年生になる前に、先生が学校の校長先生になる事になり、ヴァイオリン・ピアノ教室を閉められたのですが、ヴァイオリン1人とピアノ2人だけは継続したいと声を掛けて下さって、先生の学校生活が落ち着くまでの半年位、代講で武蔵野音大のピアノ科の学生さんが自宅にレッスンに来ていました。その頃の私は、とてもこわい男の先生から、若くて優しいお姉さんの様な先生になり、気が緩んで練習をサボったり、すぐに丸をくれるので手を抜いたりする困った子でした。その先生には秋も深まる頃までお世話になり、最後のレッスンの時にショパンエチュードの中から一曲、目の前で弾いていただき、技術の確かさに驚いた記憶が有ります。小学校を卒業するころには、ツェルニー30を終わり、40の後半あたり、ショパンのワルツ等を弾いていました。6年生の12月に、父が独立して、隣の市に会社兼自宅を建てたので、引っ越しました。引っ越す前に掃除に一家で行った新居には、グランドピアノが入っていました。入居してすぐに、緑化調整区域に指定されて、宅地として売買出来ない地域になったので、周りにはほとんど住宅が無く、練習するにはもってこいの環境でした。それから50年以上経った今でも調整は解けてないので、相続でしか建築許可が降りないため、まだまだ家は少なく、相変わらず音を出しやすい、とても恵まれた環境です。中学校では、部活動でテニス部やバスケットボール部に入りたかったのですが、指や手首に問題が起きるものは両親とピアノの先生から禁止されていたので、陸上部しか選択の余地が有りませんでした(プールが学校に無かったので水泳部もありませんでした)。陸上部では、特に夏の暑い日など、走るのが嫌でよくサボっていましたが、一度だけ、何かの間違いで県体会に出たことが有りました。音楽の授業のピアノ伴奏等はよくやっていて、ピアノが弾けることを先生や友人によく知られていました。通っていた中学校が体操部の大会開催校になった時、床運動の伴奏をした事があります。伴奏で授業をサボれて喜んだいけない思い出があります。私が中学3年の時、2歳下の妹が中学1年生になり入学してきましたが、当然妹もピアノが弾けると思われて(妹は小4でピアノを辞めていました)、夏休み明けの鑑賞の時間にトルコマーチを弾くという宿題を割り当てられて、意気消沈して帰ってきました。何度もピアノは習っていないと話しても、信じてもらえなかったと言って、仕方なく夏休みに一生懸命練習していましたが、2ヶ月くらいで弾けるはずもなく、当日は発熱腹痛で欠席するハメに。。今では笑い話ですが、当分私に「夏休みを返して〜」と恨み言を言っていました。音楽も好きでしたが体育も好きだし得意だったので、音楽学校に行こうか、体育学校に行こうか、私は真剣に考えていましたが、両親とピアノの先生は高校から音楽学校を受けさせようと決めていたようで、取り合ってもらえませんでした。普通ならここで受験する音楽大学の先生に習いに行くところですが、両親がその事を知らず先生に頼り切り、先生もヴァイオリンの生徒を東京芸術大学に入れた経験が有ったため(先生はヴァイオリン専攻です)大丈夫と思われたのか、そのままレッスンを続け、東京芸術大学付属高校と東京音楽大学付属高校と県立高校を受けました。結果は、滑り止めに受けた東京音楽大学付属高校だけ合格となりました。ピアノはその頃は、ツェルニーは40を終わり、50を弾いていましたが、表現に乏しく、ピラピラと指先ばかりで弾いていた頃でした。取り敢えず東京音楽大学付属高校に入学しましたが、何の伝手も無く入ったため、副科ばかり受け持つ若い先生に割り当てられ、学校の決まりだからとバッハインベンションとツェルニー40に戻されてしまいました。一度やった曲ばかりなので、先に進もうと何曲も練習して行っても、レッスンの時間に限りがあるので大して進ませてもれえず、すっかりやる気がなくなってしまいました。試験曲も表面的な指導で、パラパラと弾いて酷い点をもらい、練習をする気が無くなってしまいました。東京芸術大学に入れたい両親と元の先生は、今更ながら、何人かの東京芸術大学の先生の所に私を連れていきましたが、やる気も無くピラピラと表面的に弾く私を生徒にしてくれる先生は当然いませんでした。入学してから仲良くなった友人が、入ったころはツェルニー30をまだ終えてなく、それこそインベンション真っ盛りだったのに、試験で素晴らしい点を採ったり、スケールアルペジオ試験に早々と合格していくのを見て、先生を紹介して貰いたいとお願いしてみました。友人の口利きで一度聴いて下さる事になり、勝手に弾いていたモシュコフスキーの練習曲と黒鍵のエチュードを持って行きました。演奏の後少しレッスンの様子も聴いて下さり、結果は、「仕方ないから見てあげるけど、タッチは全て直します。」でした。高2から先生をかわり、1学期の間は、タッチを全て変えるため、両手ともドレミファソだけしか弾いてなかったのに、夏休みだけしか練習していなかった9月の前期実技試験では、1年生の時とは段違いの点を取る事が出来て、自分で驚いたのをよく覚えています。その先生に出会ったことで、もう他の学校に行くなんて、考えられなくなり、両親を説得しました。付属高校・大学とずっと先生に指示し、曲も元に戻してもらいやる気満々、内容を歌い上げる演奏をしっかり指導していただき、点数も順調に上位をキープできました。先生とは今でも年賀状等の行き来をさせてもらっています。先生にあの時なぜ採って下さったのかと質問したら、「紹介してくれた友人達が逆立ちしても弾けない曲を弾いているのに、全然歌えない演奏だったので、歌い方を教えなくてはと強く思ったから」と答えてくれました。大学1年の時に友人(マリンバ専攻)の紹介で、友人のマリンバの先生宅でピアノの先生のアルバイトを1年位させてもらい、大学2年の時に自宅でピアノ教室を始めました。大学4年の時、自宅教室に通ってきていた生徒さん(中学の後輩で、保育科を専攻)の自宅に頼まれて出張教室を開設しました。大学2年の時に、6歳年上の大学の先輩と授かり婚し、母親になりました。突然のことだったので、まだ子供を持つということの実感があまりなかったのですが、生まれてきてくれた娘が可愛くて可愛くて、生きていく意味や勇気を沢山感じる日々でした。学校に行ってる間は母に見てもらいながら、家事の合間を縫い、せっせと練習をし、通学の電車の中で頭の中に音を鳴らして途切れたところを譜面で確認して暗譜していました。が、たくさんの出来事があり、大学を卒業した年に離婚してしまいました。その時に手にしたお金でグランドピアノを買い、2台のグランドピアノで本腰を入れてレッスンし出したのは、娘の存在が大きかったと思います。大学は教職の単位も含め、卒業単位ギリギリでしたが4年間で卒業でき、在学中から始めていた自宅教室と出張教室の他に、日本屋楽器のピアノ講師として、綾瀬市と中野区の幼稚園会場、江東区のレッスン会場で教えていました。自宅と友人宅の出張教室、幼稚園会場で70名位の生徒数でした。大学を卒業して、娘も保育園に入り、シングルマザーとして自宅と出張レッスンに明け暮れていた頃知り合った方と、26歳の時に再婚しました。出張レッスンは自宅と友人宅の生徒さんが増えていく度に1ヵ所ずつ辞めて、再婚した時は自宅と友人宅のみでレッスンしていました。再婚後少しして第2子を妊娠したのですが、妊娠検査の時に子宮癌もわかり、妊娠と癌の検診を同時進行する事となりました。癌の進行の方が早ければ、子供は諦めて下さいと医師から告げられ、それに伴う検査や処置、妊娠検診等の日程が多いことや肉体的・精神的な負担を考えて、友人宅の出張教室は辞める事になりました。幸い癌の進行は妊娠を妨げるほどで無く、無事に帝王切開で息子を出産し、3ヵ月後に子宮の大きさが元に戻るのを待って全摘手術を受けました。自宅教室は、出産時1ヵ月、手術時2ヵ月代講の先生をお願いして乗り切りました。家事・育児と仕事をしながらの療養生活で、回復に時間がかかりましたが、それから2年半経ち、やっと体調も整い始め、少しは動けるようになって、子供達との時間も作れるようになってきた矢先に、癌が再発しました。来年はもうこの風景は見られないのか、子供たちの将来を見ることはできないのか等、色々な事がなんだかとても不安に思え、仕事も辞めなくてはかななどと考えていた時期でした。手術は成功して、ありがたいことに今まで生きながらえていますが、病後の生活はいろいろな犠牲を伴い、また、それに伴い歪みも出てきて、再婚して5年後に、またシングルマザーに戻ってしまいました。子供は、二十歳で産んだ娘が1人と、癌に負けずに産まれてきてくれた息子が1人の姉弟です。再手術後、仕事以外は横になりがちな私に代わって、7歳上でもう小学校にあがっていた娘が本当によく手伝ってくれました。後に息子は、良くも悪くも母親が二人いるようだったと、言っていました。毎日夕方から夜にかけてレッスンしていたので、自分の子供が練習する場が無く、また二人ともピアノに興味を示さなかったので、自分の子供にはピアノは教えずじまいになってしまいました。自分が強制的に練習させられてきたこと、かなりスパルタにレッスンされてきたことを考えると、躊躇してしまう気持ちがありました。また、生まれた時からグランドピアノがあり、毎日当たり前にピアノの音がする環境、やりたくなったら言ってくるはずと、思っていました。娘は門前の小僧で、見よう見まねで片言のピアノを弾き、好きなようで、今でも時間がある時ポロポロと音を出しています。息子はとても通る良い声をしていて、声楽をさせればよかったかもとも思ったりしました。二人に音楽を与えなかったことは、今となっては唯一後悔している点です。娘は大学の法科を出て、アルバイトをしながら30歳まで司法試験浪人していましたが、自分でけりをつけて就職し、何社か経て今の会社に落ち着き、法務部で足元を固め深夜まで働いています。結婚もしていて、孫は男の子で、今春(2021年)小学1年生になりました。息子は癌と競争して勝って産まれてきてくれた子で、可愛くて有難くて仕方ありませんでした。娘も弟が可愛くて、よく私と取り合いをしていました。息子は小さいころ泣き虫で、私の小さい頃とそっくりでした。小学校に上がっても、よく泣いてはいじられていましたが、5年生になったあたりから急に泣かなくなりました。大人になってから息子にどうして急に泣かなくなったのか聞いたら、「いつまでも泣いてたって仕方ないから、もう泣かないって決めたんだよ」と言っていました。その後、30代の後半、娘が大学受験の年に樹脂アート(Artresin)に出会い、音のない世界の表現に惹き込まれていきました。樹脂アートを始め、5年掛かると言われた上級指導者資格を2年半で取ったのですが、独立する段になって、絵を描く技術が無い事に困り、デッサン会に入会しました。そのデッサン会は当時はプロの絵描きさんがたくさん参加していて、指導者がいない会で、ど素人で入り、ものすごく緊張した時間を過ごしましたが、10年在籍しました。今でも貴重な体験だったと思っています。40代は樹脂の教室も始め、ピアノの教室は細々と続けながら、樹脂の作品で次々と公募展で入選・入賞を果たし、デッサンの次は図案教室、次はデザイン工房に入会し、個展やグループ展、ギャラリー企画の海外アートフェア出品等の日々でした。40代も後半の頃、樹脂の生徒さんの発案で、同じ敷地内にある亡き父の会社の建物の一角で、公募展で知り合った作家さんや、樹脂の生徒さんの作品を販売するお店を開くこととなり、日曜のみ開店する「さっかや艸」を、6年間、開いていました。母が亡くなり妹がその土地を相続することになって閉店するまでの6年間、たくさんの作家さんと出会い、作品を扱わせて頂くにつれて、制作の手法や素材等たくさんの勉強をさせていただきました。音楽は時間芸術、目に見えるものは残りませんが、制作は制作中の時間は見えませんが結果が形として残ります。表現の形は違いますが、どちらも感性の賜物です。両方の表現体に出会えたことはとても幸せな事と思っています。お店を開店する少し前に、作品を展示したりコンサートを開いたことのある、ギャラリー喫茶のオーナーさんから、お店で開催されている歌声喫茶の先生がご病気になられたので、代わりにピアノ弾きをしてほしいとの依頼を受け、色々なジャンルの曲を弾くようになりました。それまでクラッシックオンリーで来たので、初めはとても苦労をしましたが、ものすごく勉強になりました。はじめの年は夜の部だけ、2年目は昼の部も任されて、会員さんも40人くらいに増えた頃、オーナーさんの都合で閉店することになりました。オーナーさんがお店を閉めた後も会員さんの要望で、公民館等に会場を替え再開し、15名ほどで始まった会も、昨年のコロナになる前まで15年間続き、最後は5か所で合計200人の会員数になりました。けれども歌うという行為はコロナにはリスクが高く、残念ながら解散という事になりましたが、歌うことは出来なくとも演奏だけでも聴きたいという会員さんの働きかけで、現在は年に4回、ピアノとマリンバのデュオコンサート≪音聴話(おとぎ話)≫を開催しています。ピアノの生徒さんは、何の宣伝もせずに、口コミのみでしたが、少しずつ増えていきました。教室では、子供コースの基本は個人レッスンです。就学前の子供さんは、いろいろな小楽器やカード類を使って、1対1で丁寧に読譜の基礎やリズム等をレッスンし、また、ピアノに慣れ親しんでもらえる様に、自由にたくさんの音を出してもらう様心がけています。小学生の間は、時間をシェアして少人数のグループを組み、リズムやソルフェージュ・楽典ドリルやアンサンブルなどを通して、互いに研鑽したり、協力したり助け合ったりして、ピア効果が期待できるよう、工夫してレッスンしています。ピアノに於いても競争し合いながら、相手の成功を喜び合う効果が出ています。中高生になると、地域の違う学校へ通ったり、部活動や学習塾等が忙しく、なかなかグループ継続が難しいので、基本の個人レッスンに立ち返ります。中学校の合唱伴奏の指導もしっかりと行っています。部活動や塾等で練習の時間がなかなか取れない時でも、教室でレッスンを受けるだけで、今まで培ってきた力を維持できるよう、工夫してレッスンを行なっています。また、思春期でここからが情緒教育の本番に差し掛かる大事な時期でもあるため、小学生まででかなり習得できているリズムやソルフェージュの時間を、曲の組み立てや内容のもっと深い読み取り方や、心模様を話す時間に当てていきます。そして、子供主体で全員で行うコンサートをはじめとする、いろいろなイベントで、いろいろな年齢の子供同士のふれあいや社会参加の経験を通して、心の安定した豊かな人間性を手に入れていけるよう、第2の母であり、また家庭でも学校でもない、第3の居場所として機能できるよう、努力しています。大人コースにおいても、基本は子供コースと同じく、個人レッスンが基本です。大人コースは年齢も様々で、経験のある方、まるで初めての方等、いろいろな方がいます。また、目標も色々で、クラシックオンリーで、がっちり基礎から習いたい方から、お孫さんに童謡を片言でいいから弾いてあげたいと希望される方まで、バラエティに跳んでいます。目標をしっかり聞いて、少しでも近づけるように、お手伝いします。また、ミニコンサート形式のお茶会を開催して、弾きあったり話をしたりして親睦を深める機会を設けたり、街ピアノや駅ピアノ等を弾きに遠征に行ったりする計画も提案されています。ピアノのあるカフェやお店を借りて大人の発表会を開催したり、その周辺を巡って大人の遠足にする企画も進行中です。コロナ禍で、なかなか進展できなかった企画や催しも、少しずつ前に進んでいけそうな様子になってきています。状況を見ながら、計画を進めていくのも楽しみのひとつです。その時のためにレパートリーを増やして楽しんでいる方もいます。生徒さんには、曲の進度や長さ、ジャンル等に関わらず、ピアノを弾く事そのものを心から楽しんでいただきたいと思って、レッスンする様心がけています。保育士資格や教員免許資格取得を目指す学生さんのレッスンコースは、ピアノレッスンだけでなく、楽典やリズム・ソルフェージュにも指導を行っています。現役の保育士さんや学校の先生には、職場で日々弾いている曲のレッスンや、簡単なアレンジをはじめとする、すぐに使えるアイディアなども指導しています。たくさんの子供たちの前で弾く時には、ぜひ、弾いている先生ご本人が楽しんで演奏できるよう、応援・援護する気持ちでレッスンしています。
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