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田村泰彦です。炭都・福岡県筑豊地方には、最盛期には500余のボタ山がありました。その多くは閉山後、造成地や工業団地に姿を変えました。残った山肌はいま、長い月日を経て多様な草木が覆っています。旧・三井田川炭鉱第六坑は明治時代からの歴史を持つ三井田川鉱業所(現・三井石炭鉱業)の最後の開削場所(8番目)として、1944年(昭和19年)、三井田川炭鉱第六坑が開削スタートしました。1948年、本卸坑口から出炭開始、ボタ山の成長も始まりました。1959年、もう一つの南卸坑口からも出炭開始。ボタ山の成長も最盛期となりました。1960年、所在地名をとり夏吉(なつよし)坑と改称しました。1962年、経営が譲渡され白鳥鉱業所夏吉炭鉱になりました。このころまでに現在のような規模になりました。1964年、炭鉱閉鎖しました。旧・三井田川炭鉱第六坑のボタ山は、普通の里山風景としてなじんでいます。炭鉱で選炭後に出る岩石や粗悪な石炭がボタです。レールを敷き、「スキップ」と呼ばれるトロッコのような炭車にボタを載せて運び、捨てます。その繰り返しが巨大な人造の山を産み出しました。傾斜が急なため、雨の後などに崩壊して災害を起こしやすく、炭鉱閉山後、見る見る姿を消しました。取り崩して、埋め立てや道路舗装、新幹線軌道の下敷きに使われ、跡地は工業団地や住宅団地に変わっていきました。現在、往時のままの形をほぼ完全に残したボタ山は、炭都と呼ばれた田川市に限ると、三井田川六坑ボタ山ただ1つです。筑豊全体でも他には、筑豊富士の異名を持つ旧住友忠隈(ただくま)坑ボタ山(穂波町)しかありません。ボタ山の環境は貧栄養で乾燥が激しく、植物にとって厳しいですが、ススキとセイタカアワダチソウの群落ができ、冬、地上部が枯れて有機物をたい積させます。岩石の風化を進めて植物自身が生育環境を作り出し、樹木が入ってきます。風や鳥がさまざまな種類の植物をもたらしています。植樹もしたことがなく、自然まかせだが、樹種が次第に豊富になりつつあります。昔の田川は、極端に言えば、町の周りが全部ボタ山でした。ボタ山の上にボタ山ができたというほどでした。その当時を知る人たちに思い出話を聴くと、単なる厄介物でなかったことがわかります。石炭拾いに入る人も多かったし、子供たちは雨でできた溝でダムを作って遊んだり。冒険の場でもあったようです。
テーマ: 旅行
登山・トレッキング
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