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平塚市・秦野市のピアノ教室、主催の鈴木千帆です。金目小学校・金目中学校からすぐ。みずほ小学校から徒歩7分、金目保育園から徒歩8分。未就学の方から80歳代のシニアまで、ピアノを弾ける、楽しい!を大切にレッスンさせて頂いています。発達障害の診断を受けられた方のためのレッスンにも対応しています。もちろん生まれつきピアノを弾けていた訳ではありません。生まれた時は真っ白な赤ちゃん(白ちゃん?)。将来色黒になると祖母に心配されました(そして祖母の心配は現実のものになりました…)。三人兄弟(妹、弟)の長女として、道路に面した社宅の二階で小学校1年生まで暮らしました。ベランダから外を眺めては、知っている人が通るのを見つけては「おばちゃーん!」と大声で呼びかけて手を振るような、とんでもなく社交的な子供でした。自転車に乗れるようになった頃、近所の方からサイクリングに誘われて、大喜びで出掛けたは良いものの、下り坂で思い切り転んで顔面を強打。生えたばかりの永久歯(前歯)を欠いて母をがっかりさせました。顔に傷が残らなかったのは不幸中の幸いでしたが、ちょっとあわてんぼうな性格は今でも変わっていません。ピアノは三歳から母の手ほどきで始めました。ピアノ教室に通い始めたのは年長の時です。入門3ヶ月で発表会に出演させて頂き、ブルクミュラーの最初の二曲を弾きました。舞台裏に引っ込んですぐ「お母さん、わたし間違えなかった!」と叫んだとのことです。その声は会場中に響き渡りました。この頃から声は大きかったようです。先生は市内で人気を二分する故・加藤福子先生。同じ社宅に住む方からのご紹介で入門をお許し頂きました。先生は大変な褒め上手でおいでで、のびのびと弾かせて下さいました。ソルフェージュ教育をきちんとして下さったことにはただ感謝するのみです。先生はいつも穏やかな笑顔でおいででした。楽譜には赤鉛筆でチェック、レッスン中は絶対にお座りになりませんでした。この二点だけは私も受け継いで、いまだに(一部の方を除いて)そうしています。生徒もペンケースに赤鉛筆を入れてくれていることがあり、なんだか嬉しい気持ちになります。門下生は大変に多く、音大に進まれる方も多い会でした。発表会では幼稚園から音大卒業生、プロのOGまでが演奏、午前中から夜までかかる長大な会でした。会の間、先生は終始舞台袖に立ちっぱなしで、これから舞台に出る生徒全員の肩を優しく抱いて送り出して下さっていました。小柄な先生の後ろ姿は今も目に浮かびます。会の記念品はいつも中華の焼き菓子でした。アーモンドの乗った大きなお菓子は良い香りで、頂けるのが本当に嬉しかったものです。小1で二度目の発表会に出演し、エリーゼのためにを弾きました。ペダルに足が届かなくて、ほとんど立ったまま弾いたのを覚えています。その頃の家での練習はというと、一回弾いてはピアノの前を離れては台所に立つ母に学校での出来事を話し、また一回弾いては立って話しに行く、と全くもって集中力のないものでした。しかも母が見ていないのをいいことに、本を読みながらハノンを延々練習していたりもしました。けして良い生徒だったとはいえませんが、ピアノは学校の先生にも認めて頂いて、合唱や合奏などではいつもピアノを担当させて頂いていました。ピアノのおかげか、クラスではちょっと目立つ存在だったようですが、いつも3学期に学級委員に選ばれていたので、色々な意味で3番手というスタンスだったのでしょう。6年生の時は児童会に入り、学校行事の企画進行などをするうちに催しの企画や裏方仕事が好きになりました。お菓子を作るのが好きになったのもこの頃です。友達の誕生日などに手作りのクッキーを焼いたりし始めましたが、加減がわからずにこね回し、歯が折れそうな固い代物を作って満足していました。ピアノ教室では、4年生から音大進学を目指す上級クラスに入り、山内悠子先生のご指導を頂くようになりました。月2回は地元でレッスン。もう2回は日曜の朝9時から先生のご自宅のある国立市でレッスン。1人で小田急線に乗って片道二時間かけて通いました。並行して聴音、ソルフェージュのレッスンも始まり、この頃からなんとなく音大受験モードになっていきました。中学、高校と進学する間もピアノ中心の生活が続きました。中学入学後初めての発表会でショパン「華麗なる大円舞曲」を弾き、メロディが美しくてショパンの作品をもっと色々弾いてみたいと思うようになりました。毎日曜日はレッスン。月2回の国立でのレッスン後は二時間かけて移動、聴音とソルフェージュの受験指導をして下さる茅ヶ崎の先生のお宅に伺いみっちり3時間のレッスン。今思えば遊びに行く暇もありませんでしたが、そういうものだとしか思っていませんでした。平塚の北極星と呼ばれた母校・平塚市立大住中学校は田んぼの真ん中にあり、吹きっさらしの中を自転車通学したおかげで妙に筋肉が付き立派な大根足になりました。部活動こそしなかったものの放送委員を2年務め、学校行事のほとんどを放送室や放送席で過ごし、ますます裏方志向になっていきました。校内の合唱コンクールでは伴奏に練習に、と大いに頑張りました。優勝はできず大泣きしましたが。高校は県立平塚江南高校に無事合格。この高校なら音大レベルの学科は大丈夫、と言われたのを良いことに勉強はほとんどせず、成績が良いとはお世辞にも言えない不出来な生徒でした。選択科目で分けられる授業のコースは女子クラスで、共学なのに女子校感覚で妙に楽しい時間を過ごしました。またも放送委員となり、演劇部、合唱部、吹奏楽部の公演の手伝いや学校行事の放送関係を担当するなど裏方街道をひた走ります。校内の合唱コンクールでは中学校からの意地もあり、2年生の時には自由曲一位、総合二位の成績をおさめ大満足。小学校に始まったこの一連の経験が演奏活動へつながっていると思います。 長期の休みには音大の講習会に通い、将来のことを意識するようになりましたが、音大の先生のレッスンを受けて自分の実力のなさに初めて気がつきました。芸大を受けられないレベルなのだ、と自覚した時が(それまで調子に乗って好きなように弾いてきただけに)人生初の挫折だったように思います。そんな私でしたが、国立音楽大学ピアノ科に入学できました。実技試験の前日は記録的な大雪でした。無事に受験できるか、本当にドキドキしたのを覚えています。緊張のためか、受験後から合格発表の日までの記憶が全くありません。でも合格発表を見に行く電車で乗り越したこと、先生が発表の時に新婚旅行中でいらしたので、留守電に合格しました、とメッセージを入れたことだけはよく憶えています。大学ではレッスンや曲のレベルもぐんと上がり、通学時間が長かったこともあって大学生活を楽しんだりサークルに入るような余裕は全くありませんでした。それまでお気楽に調子に乗って弾いていただけに、何もかもがカルチャーショックで、慣れるのにも本当に時間がかかりました。必死に学校へ通ううちに、ピアノの弾けない、上手でない自分は価値がないと思うようになっていきました。自己コントロールがうまくできなくなり、緊張から思うような演奏も出来ず、成績もぱっとしないまま時間だけが過ぎ、今振り返るともう少しどうにかならなかったのか、と思えてなりません。そんな学校生活の中でしたが唯一、かねてから興味のあった声楽の伴奏はとても楽しく、知るほどに美しさを感じる奥深い世界で、弾き甲斐を感じていました。3年生の時に受講した名手・小林道夫教授の伴奏法の授業ではドイツ歌曲の色鮮やかさ、心のうちを描く美しい世界に心を揺さぶられ、その魅力にますます強く惹きつけられて行きました。声楽科の先輩方のレッスンに数多く同行するうちに伴奏の勉強をしたいと思うようになっていったのです。けれど卒業後の進路について、伴奏の勉強をしたいと先生にご相談した際には色良いお返事を頂けず、とうとう進路が全く決まらないまま卒業の日を迎えてしまいました。大学を出た頃から高校の恩師のお子さんを出張でレッスンさせて頂くようになったのを皮切りに出張レッスンで教え始め、合唱団の指導、伴奏なども依頼を頂くようになりました。生徒たちの弾けるようになった時、うまくハモれた時の合唱団の皆さんの笑顔が本当に嬉しくてやりがいを感じるようになりました。ちなみにお子さんのレッスンをさせて下さった高校の恩師からは後に「大学を卒業しても就職もせずにいて心配だったから」と言われました。周囲の方々が温かく見守って下さったおかげで仕事も勉強も続けてこられたことに心から感謝しています。移動のため普通免許を取得。車で出張レッスンに向かうようになった矢先に早速スピード違反で捕まったりもしましたが、おかげさまで忙しい日々を送るようになりました。そうして生徒たちのレッスンを続けながら、東邦音楽総合芸術研究所伴奏法専攻に入り念願だった伴奏の勉強を始めました。2年通所し修了。在所中にオペラ歌手の松本美和子先生のレッスン伴奏に入りベルカント唱法に心酔、レッスンのアシスタントを願い出てお許し頂きました。レッスン伴奏に通いながら日本声楽家協会コレペティトル専科に入所、コレペティトール(オペラコーチ)を目指し勉強を始めました。その甲斐あってイタリアでの夏季オペラ講習会のアシスタントのチャンスを得て、「蝶々夫人」の公演に参加しました。世界中から集まってきた受講生との音楽の時間は本当に楽しく、やりがいを感じるも、実力不足を痛感し語学その他の勉強にますます励む決意をします。演奏活動が充実してきても出張で行う生徒たちのレッスンは楽しく、勉強していることを生徒たちにも伝えたい、レッスンに反映したいと模索し始めました。その頃は20名ほどのピアノの生徒、合唱団、アマチュアの声楽家の指導と様々な場でたくさんの皆さんとご一緒するようになっていました。特に小さな生徒さんにはピアノを通してさまざまな世界に興味を持ってほしいと、レッスンでは作曲家を知るために一緒にヨーロッパの地図を見たり、作曲家の生きた時代の絵画作品を見たりなど。多方面の視点から音楽を感じられるような試みは今も続いています。テスト前には家庭教師の経験から勉強のアドヴァイスをしたり。様々な世界の方との出会いで、クラシックではない音楽を数多く聴くうちにこの曲を弾きたい!という生徒の思いを、音楽のジャンルを問わず大切にできるようになったことは収穫でした。また声楽のレッスンを見聞きするうちベルカント発声を学び、伴奏に加え指導も乞われるようになりました。けれどそのうち自分で望んで勉強を続けていたはずがコレペティトル専科で伸び悩むようになり、限界を感じ始めました。精神的にも追い込まれていき、演奏での失敗もあって弾くことはおろか音を出すことも怖くなり…まさにどん詰まり、どうにもならなくなるところまで行きましたが、そんな中で素晴らしいメンターとの出会いに恵まれ、自分のこれまでを顧みて生きにくさを克服すべく毒親、発達障害、児童心理学などの勉強を始めました。文字通り叱咤激励されて気づきを得る度に、世界が明るくなっていくような感覚を抱きながら演奏の喜びを少しずつ取り戻し始めました。それと同時に、生徒たちの悩みに強く共感できるようになったように感じていて、得難い機会であったと今では思っています。そんなある日、市内にある金目保育園ピアノ教室の講師のお話を頂きました。当初は週に2日ということでスタートしましたが、大変にご入会希望が多かったため、思い切って定期的に伺っていた声楽レッスンのアシスタントを辞めてその分をピアノ教室のお日にちを増やすことにしました。保育園のお教室では曜日ごとの小さなコンサートを企画するなど、園内の学童保育の子どもたちにも聴いてもらったりと楽しい機会を多く持つようになりました。出張レッスンではできなかった、集まった生徒さんたちとの交流は本当に楽しくやりがいを感じます。そこでもっと何か楽しいことをしたくなり、ふとお菓子を作るのが好きだったことを思い出してブールミッシュ製菓アカデミーに入学しました。プロフェッショナルとまでは到底行きませんが、洋菓子の基本から応用までを6年間学んで、発表会の記念品を手作り菓子にしたり、演奏後にお茶会を企画したり、などということができるようになりました。先生はみんなの演奏のための裏方さん。そう思うとこうしたら楽しいかも、とアイディアも湧いてくるように。その後保育園の方針が変わりお教室がなくなることになり、生徒さんたちの行く末を考えて、思い切って保育園の近隣に現教室を開きました。お嬢さんが音楽の先生、という理解ある大家さんとの出会いは本当に幸運だったとしか思えません。制約のない現教室ではクリスマス会なども開催できるようになりました。演奏の後は手作りのケーキで楽しくティータイム。皆でサンドウィッチを作ったり、自由にケーキデコレーションをしたりと楽しみが増えました。楽しいことは分け合うともっと楽しくなる。音楽も誰かと一緒だともっともっと楽しい、子どもたちにもますます楽しんでほしいと思うようになりました。2021年には日本モンテッソーリ教育綜合研究所入門講座修了。モンテッソーリ湘南こどもの家主宰山内享子氏のお誘いを頂いて「Montessori Green Quest」を立ち上げ、日本初のモンテッソーリリトミックのクラスをスタートしました。0歳以上の乳幼児さんを対象に、音楽・ピアノをより豊かに楽しめる身体と感性を育むクラスで、日々楽しい音楽の時間を紡ぎ出すべく走り回っています。
テーマ: 発表会
音楽活動・楽器
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